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星期日, 6月 29, 2008

王金平



王金平(1941年3月17日-)[wáng jīn píng:おうきんぺい:Wang, Jin-Pyng]

 台湾高雄県路竹郷出身、現任の中華民国立法院長。

 台南一中初中部および高中部を卒業、その後国立台湾師範大学数学系に入学。卒業後、省立彰化進徳中学で教育実習を行う。しかし兵役終了後、家業の食品工場に就職し、輸入関係の業務を担当する。

 1975年末、高雄県工業会理事長を務めていた王金平は国民党地方党部に見いだされ、推薦を受けて第2次立法委員増員選挙に立候補する。家族と高雄県工業会の影響力は大きく、19万票の高い得票で立法委員に当選。1993年2月1日、王金平は第2期立法員副院長選挙への立候補者として指名され、高い得票で当選。1999年2月1日には立法院院長に当選。

 王金平は1990年に国民党中央政策会副主任委員に就任し、党の政策決定で中心的な役割を果たすようになる。1991年からは立法院工作会主任および党団書記長も兼任し、立法院における国民党を代表する政治家となる。1992年に党中央常務委員に当選、2000年に国民党が政権を失った後、党副主席に就任。野党となった国民党において5院の長である王金平は同党では最高位の公職に就く人物となった。

 王金平は国民党内の台湾本土派を代表する人物で、南部地区および低所得者層で強大な支持基盤を持つ。ただし李登輝元総統との関係が密接なため、統一派からはやや不信感を持たれている。2005年3月、連戦主席(当時)が再選を目指さないことを正式に宣言したため、王金平は国民党主席選挙に立候補する。選挙の相手となった馬英九は人気こそ高かったものの、王金平もその政治手腕を高く評価されており、党内各派閥や長老たちとの関係も良好だったことから、侮れないとみられた。しかし2005年7月16日に実施された中国国民党主席選挙の結果、馬英九が大差をつけて王金平を敗った。その後王金平は馬英九の要請を拒否し国民党副主席を辞職した。ただし、王金平はその際中国国民党の永久ボランティアとなると宣言した。

国民党陣営が立法員で新版中央選挙委員会(中選会)組織法を決議しようとした際、民進党側はこれを違憲としてボイコットすべきと見なした。2007年1月19日、立法院における与野党の乱闘はアメリカのケーブルテレビネットワーク、CNNのヘットラインとして報道された。民進党は議事進行をボイコットするためバイク盗難予防チェーンで扉を施錠して王金平を院長室に「監禁」した。これは議長が立法委員「監禁」された初めてのケース。


王金平のプロフィール

性別: 男
政党: 中国国民党
本籍地: 台湾高雄
出生: 1941年3月17日 (1941-03-17) (67歲)
日本統治下の台湾高雄州路竹荘
配偶者: 陳彩蓮
学歴: 国立台湾師範大学数学系卒(1963年)

経歴

* 高雄県工業会理事長 (1975年-1981年)
* 立法院(第一期増員)委員 (1976年-1993年)
* 中国国民党立法院工作会主任 (1991年-1993年)
* 中国国民党立法院党団書記長 (1991年-1993年)
* 中日国会議員聯誼会会長 (1992年-)
* 中国国民党中央常務委員 (1992年8月-2000年6月)
* 立法院(第二期)副院長 (1993年-1996年)
* 立法院(第三期)副院長 (1996年-1999年)
* 台湾プロ野球リーグ会長 (1997年-2002年)
* 台湾がん基金会董事長 (1997年-)
* 中華民国義勇消防総会理事長 (1997年-)
* 立法院(第四期)院長 (1999年-2002年)
* 中国国民党副主席 (2000年6月-2005年)
* 立法院(第五期)院長 (2002年-2005年)
* 立法院(第六期)院長 (2005年-2008年)
* 立法院(第七期)院長 (2008年-)
* 中国国民党政策会副主任委員
* 中華民国立法委員協会理事長
* 国家バイオテクノロジー医療発展委員会会長
* 中華民国バリアフリー推進協会名誉理事長

星期六, 6月 21, 2008

蔡英文



蔡英文(1956年8月31日-)[cài yīng wén:さいえいぶん]

 台湾の学者および民主進步党に籍を置く政治家。「二国論(中国と台湾が特殊な国と国の関係にあるとした論文、李登輝が発表)」起草に参加、2000年に民進党が政権を取った後、行政院大陸委員会(陸委会)主任委員に就任。2004年民進党入党、同年全国比例区から立法委員に当選。2006年行政院副院長に就任。派閥体質の民進党において派閥色のない蔡氏は、清潔なイメージも手伝って一部のメディアからは「小龍女」[1]あるいは「白玫瑰」の愛称で呼ばれる。現民進党主席(2008年6月現在)。

[1] 「小龍女」...著名な作家、金庸の武侠小説「神鵰俠侶」の女主人公の名前。孤高の存在で、独世俗的な汚れを持たない清廉なキャラクター

生い立ち

 屏東県枋山郷楓港出身。屏東客家の望族に属する。実家はかなり裕福で、父親の蔡潔生は、彼女が小学4年のとき、台北市の中山区中山北路と新生北路に少なからぬ土地を購入。国立台湾大学法律系を卒業後、米国コーネル大学法科大学院で法学修士を取得、また英国ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士を取得した。帰国後経済部国際経済組織の主席法律顧問、国立政治大学、東呉大学法律系所、国際貿易研究所の教授を歴任。

 90年代後期から中華民国国家安全会議の諮問委員に招聘され、二国論の起草に参与し李登輝総統(当時)に重用される。民進党政権となり、陸委会主任委員に就任し両岸(中台)政策を担当。2004年に請われて民進党に入党、2004年中華民国立法委員選挙で比例代表区から名簿第6位で立候補し当選。2006年1月に行政院副院長に就任。

民進党主席

 2008年4月17日、蔡英文は民進党の主席選挙に立候補を表明、蔡同栄、辜寛敏の両氏との争うことになる。5月18日、民進党主席選挙において73865票を獲得し、辜寛敏(48882票)および直前に事態を表明した蔡同栄(6530票)を下して第十二代民主進步党主席に当選。民進党史上初めての女性主席の誕生となった。

 5月20日、正式に民主進步党第12代主席に就任。5月21日、「希望」と題して就任演説を行う。

星期日, 6月 15, 2008

蕭万長



蕭万長(1939年1月3日-)[蕭萬長:萧万长:xiāo wàn cháng:しょうばんちょう、Vincent Siew]

 現任の中華民国副総統。2000年の総統選挙に国民党から連戦氏とペアで副総統に立候補し落選。さらに2007年6月23日、国民党の総統候補、馬英九氏に乞われ、2008年総統選挙でも再び副総統候補として立候補し、当選を果たす。常に笑顔を絶やさないことから「微笑老蕭」(スマイリー・ヴィンセント)の愛称で呼ばれる。


1939年1月3日、5男2女の三男として日本統治下の台南州嘉義市に生まれる。
1951年嘉義市大同国小を卒業
1957年嘉義中學高中部を卒業
1957年-1965年国立政治大学外交系、大学院

1978年、台湾とアメリカが断交した際,「永久最恵国待遇」を得るための談判に国貿局副局長として渡米した。

1993年と94年、行政院経済建設委員会(経建会)主任委員在任時、2回にわたりアジア太平洋経済協力会議に中華台北代表として出席。

1994年、台北市長選に国民党から蕭万長を立候補者にとの声が聞かれたが、当人に意欲はなかったことに加え、世論調査でも勝算は低く、友人の宋楚瑜などから反対されたこともあって、参選せず。(台北市長には陳水扁氏が43.7%の得票率で当選)

1995年、第3期立法委員選挙に故郷、嘉義市から立候補。民主進步黨の蔡同栄氏を敗って立法委員に当選。のちに行政院長に就任したため、立法委員を辞職した。これによる立法委員補選では先に蕭万長氏に敗れた蔡同栄氏が当選。

1996年末、李登輝総統(当時)が招集した「国家発展会議」では、国民党を代表して民進党との協議を行った。

1997年、連戦内閣が総辞職し、蕭万長氏が後を継いで行政院長に就任した。任期中の両岸(中台)政策は「戒急用忍(急がず忍耐強く)」。

1998年、行政院長任期中に金融不安が起き、東隆五金、禾豊集団、国揚実業、台中企銀、順大裕など上場企業株が突然紙切れに変わる「地雷株」となった。

1999年末、国民党の指名を受けた連戦総統候補のペアとして蕭万長氏は副総統候補となる。

2000年、国民党は総統選に敗れ、政権交代となり蕭万長氏は行政院長を辞職した。また、この年蕭万長氏は国民党副主席に任命される。

2005年3月、「世代交代」を理由に国民党副主席を辞任し、国民党中評会主席団主席に就任。

2006年、世界経済について解説する年代新聞のテレビ番組、「藍海年代」の司会を務める。

2007年6月、経済的なバックグラウンドおよび中台に広い人脈を持つことを買われ、国民党の総統選立候補者、馬英九氏の要請を受けて再び副総統候補となる。

2008年4月12日、「両岸共同市場基金会董事長」の名義で中国・海南省で行われる「ボアオ・アジア・フォーラム」に参加し、その中で胡錦濤中国国家主席と会談。「両岸融氷之旅」と題した今回の行程を蕭万長氏は「正視現実,開創未来,擱置爭議,追求双贏」(現実を正視し、未来を開く、争議を置いて、双方の利益を追求)と今後の中台関係を16文字で表し、中台の経済、政治に新たな局面をもたらす決意を示した。

星期五, 1月 11, 2008

蒋孝厳



蒋孝厳(1942年5月2日—)[蔣孝嚴:蒋孝严:jiǎng xiào yán:ㄐㄧㄤ3 ㄒㄧㄠ4 ㄧㄢ2:しょうこうげん]
 もとの名を章孝厳、中国国民党所属の立法委員(国会議員)、元中華民国外交部長(外相)。

 蒋孝厳と章孝慈は元中華民国総統、蒋経国とその情婦、章亜若との間に生まれた双子の兄弟。二人は抗日戦争時代、中国の桂林にて出生。蒋経国はすでに蔣方良と結婚していたため二人は私生児として母親の章姓を名乗ることとなった。しかし、名は蒋経国の他の子女と同じく「孝」の字を取っている。

 1972年8月、章亜若が何者かに殺害され、兄弟は章亜若の弟、章浩若とその妻、紀琛によって育てられた。この叔父と叔母は戸籍上二人の実の父母として記載されていたが、2002年正しく改められた。国共内戦時、二人は母方の祖母、周錦華とともに台湾新竹に移住。国立新竹高級中学を卒業後、東呉大学に入学。

 1974年から1977年まで中華民国駐米ワシントン大使館に勤務。この期間ジョージタウン大学で理学修士の学位を取得。

 蒋孝厳と妻、黄美倫には娘、惠蘭、惠筠と息子萬安がいる。


キャリア

 1996年6月10日から1997年10月20日まで、中華民国外交部長を担当。任期中に断交となった国は、ニジェール、バハマ、セントルシアの3カ国で、南アフリカもまもなくの断交を発表した。断交国数は当時の外交部長では比較的多いものだった。(要ソース)

 中華民国総統府秘書長を担当時、芸能人の王筱嬋とのスキャンダルにより辞任。


 2006年1月、民進党政権の中華民国政府によるリビアとの関係発展をみた蒋孝厳は新聞に投書し、リビアを「軍事独裁国家」、「国民党時代なら見向きもしなかった」と批判し、リビア元首のカダフィー少佐の国際的評価も国内として、民進党政府は「貧するとも相手を選ぶべき」との考えを述べた。
 4カ月、陳水扁総統がリビア訪問した後、アメリカとイギリスがリビアと国交を回復。リビアはその数年、欧米各国との間で協調を達成し、その関係を大きく改善していた。とくにイギリスは3月25日、ブレア首相自らがリビアを訪問しており、中華民国外交部の試みは「相手を選ばない」やり方ではなく、蒋孝厳の批判は明らかに世界情勢の変化を捉え切れていなかったと言える。

 2006年4月6日、台北市長選の中国国民党予備選に出馬するものの、形成不利とみて撤退。

 2001年より台北市南区および北区から第5次および第6次立法委員に当選。別々の選挙区からの出馬は、台北市長選を念頭に置いたものとみられたがそれは叶わなかった。2008年中華民国立法委員選挙が小選挙区制となった関係で、台北市第3選挙区(中山区および松山区=雙山)での立候補となった。

2005年3月、正式に姓を蒋と改め、子女も将来これに従うと宣言した。

プロフィール

性別: 男
政党: 中国国民党
籍貫: 江西省南昌市
出生: 1942年5月2日
学歴: * 東呉大学外文系卒業 (1964年)
* 米ジョージタウン大学修士 (1976年)
* ブリュッセル自由大学研究生
キャリア:* 外交部北米司(薦任)科員(1971年-1974年)
* 駐米大使館(三等)秘書(1974年)
* 駐米大使館(二等)秘書(-1977年)
* 外交部北米司科長(1978年-)
* 外交部北米司專門委員
* 外交部北米司副司長(-1980年)
* 北米事務協調委員会副秘書長(1981年11月-1982年6月)
* 北米事務協調委員会秘書長(1982年6月-1982年9月)
* 外交部北米司司長(1982年6月8日-1986年10月24日)
* 外交部常務次長(1986年10月24日-1990年2月17日)
* 中国国民党中央委員会委員(1988年)
* 中国国民党中央委員会海外工作会主任(1990年)
* 外交部政務次長(1990年8月24日-1993年3月5日)
* 外交部研究設計委員会主任委員(1990年10月19日-1993年3月5日)
* 行政院青年輔導委員会委員(1990年11月15日-1993年5月7日)
* 行政院文化建設委員会委員(1993年2月27日-1997年)
* 僑務委員会委員長(1993年2月27日-1996年6月8日)
* 僑務委員会僑務工作研究促進委員会主任委員(1993年2月27日-1994年)
* 行政院大陸委員会委員(1993年3月11日-)
* 中国国民党中央常務委員(1993年)
* 外交部部長(1996年6月8日-1997年9月1日)
* 行政院国軍退除役官兵輔導委員会委員(1996年8月8日-1997年)
* 国民大会(第三次)代表(1996年-1999年)
* 行政院副院長(1997年9月1日-1997年12月10日)
* 中国国民党中央委員会秘書長(1997年)
* 行政院消費者保護委員会(兼)主任委員(1997年)
* 総統府秘書長(1999年11月18日-1999年12月22日)
* 総統府資政(1999年12月23日-2000年5月20日)
* 大華投信公司董事長(2000年-)
* 中華国家発展協会理事長(2000年-)
* 中国国民党中央常務委員(2000年-)
* 中国台商発展促進会理事長(2001年-)
* 立法院(第五次)委員(2002年-2005年)

資格: * 甲等外交領事人員特考合格(1978年)

星期日, 8月 12, 2007

馬英九



photo by Jiang

馬英九(1950年7月13日—)
(日本語読み:ばえいきゅう、北京語ピンイン:Mǎ Yīngjiŭ、英語表記:Ma Ying-jeou

中華民国第12代総統

 香港生まれ、1993年から1996年まで中華民国法務部部長。1998から2006年まで台北市長。2005年8月19日就任中国国民党(国民党)主席(蒋経国、李登輝、連戦に続く第四代党主席、また、複数の候補者が党員による直接選挙で争って決まった最初の主席)
 妻は周美青、娘が二人。
 馬英九は、現在の国民党の中間世代を代表する政治家で、最も大衆的魅力を持つ政治スターと目されている。
 2007年2月13日、台北市長在任中の首長特別費の使用を巡り、汚職横領罪の疑いで台湾高等法院検察署により起訴された。以前から起訴されれば主席を辞任すると発言しており、同日主席辞任を願い出ると同時に2008年の中華民国総統選出馬を表明した。

生い立ち

 香港九龍広華医院に生まれる。当時の住所は調景嶺。父親の馬鶴凌は抗日戦争時、青年軍に参加、馬鶴凌の公職における最高の地位は行政院青輔会処長(十二職等)。退職前の地位は国民党中央考紀会副主委。母親の秦厚修は中央銀行外国為替局主任を務めたことがある。6人兄弟で馬英九以外は全て女児。祖先は湖南省湘潭県馬家堰出身。

 一歳の時、両親とともに台湾へ移住。中学時代は台北大安初中に学ぶ。高校は台北市建国中学、台湾大学法律系(法学部)卒業後ただちに予備役に就く。海軍左営後方司令部(左營海軍後勤司令部)に勤務。1974年、中国国民党中山奨学金を得て、米国で法律を学び、ニューヨーク大学法学博士およびハーバード大学法学博士の学位を取得。

 馬英九はハーバード大在学時、課外活動としてボストン通信(波士頓通訊)の主編を務め、同時にニューヨーク市ウォール街のコール&ダイツ(Cole & Deitz)法律事務所で弁護士実習生、メリーランド大学(University of Maryland)法学院の研究顧問を務める。さらに反共愛国連盟に参加したとの指摘もあるが、本人は認めていない。

 以下は馬英九がボストン通信主編を務めていた時の文章
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* 中央民意代表新陳代謝問題は、二つの原則によって実現すべき。ひとつは国内の新しい政治勢力を反映すること、ひとつは憲法精神を維持すること。

* ただちに戒厳令を解くことには賛成しない。ただし政府は人権保障を拡大し軍事管制を縮小することを原則として戒厳令に関する法規を全面的に見直すべき。

* 台湾独立勢力処理問題:最高指導原則は「敵ではなく同志」であり、我々は、十数年もの国内教育を受け、経済的繁栄を享受している若者が海外留学の後、なぜ台湾独立に同情を抱いたり支持したりするのか振り返って自省しなければならない。

* 228事件問題:我々は確信している。あの悲劇の中、一定数の無辜の人々が被害を受け、命だけではなく、名誉も失い、現在に至るまで「叛乱者」の名を着せられ冤罪が晴れていないことは間違いない。いつの日か名誉回復がなされるべきである。

* 台湾独立勢力の「多数統治」について。すなわち多数を占める閩南系住民が台湾を統治すべき、との主張には、「機会均等」を持って対応すべき。省籍を分けて考えるのではなく、全ての人が競争に対して等しく機会を得られるようにすること。

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 卒業後、メリーランド大学法学院研究顧問、ボストン第一銀行法律顧問を務め、同時にニューヨークの法律事務所に勤務。


政界進出

1981年:帰国。政界への進出を開始する。帰国後すぐ、公務員試験を経ずに総統府第一局副局長、すなわち蒋経国の英語通訳に就任。
1984年:国民党中央党部秘書長
1986年:甲等特別試験を通過。
1988年:行政院研考会主委兼大陸委員会(陸委会)工作会報執行秘書。
1990年:国家統一委員会研究員。
1991年:陸委会副主委兼スポークスマン。国民党不分区国民大会代表に当選。

逸話

* 総統府第一局副局長時代、総統への陳情を目にする機会のあった馬英九は、当時反乱罪で緑島の刑務所に収監されていた陳明忠の病気治療のための保釈希望を見て、その陳情への協力を決め、陳明忠は仮出所を獲得した。馬英九と陳明忠の間に面識はなかった。

* 呂秀蓮の入獄中、馬英九はハーバード大学の恩師・孔傑栄が病気治療外出中の呂秀蓮と三軍総合病院の応接室で会見できるよう手配した。

* 蒋経国が国会改革を決めた際、多くの者が「中央民意代表機構充実方案(充實中央民代機構方案)」を提出し「大陸代表制」設立を勧めた。馬英九はこれに対し、二度に渡り蒋経国の自宅を訪れ「大陸代表制」反対の理由を語った。蒋経国は終止笑いながら「要らないな」と答えた。後に蒋経国は自ら「台湾人」であると称して、大陸代表制構想を覆した。

* 1992年6月、馬英九はバークレーへ赴き、両岸(中台)関係の座談会に参加した。中国は秘密裏に汪道涵と会見してほしいとの意向を伝えたが、馬英九はこれを拒絶した。

* 1980年、馬英九は「国家統一綱領」の起草を担当した。当時注目を集めたのは、中国との統一時期とその方法だった。馬英九が提案したのは「中国との統一とその方法は、まず理性的、平和的、対等、互助の原則の下、台湾地区住民の意思、並びに安全と福祉を尊重し、段階的に順をおって達成すべき。」というものだった。後に「台湾地区住民の意思」の「意思」は「権益と福祉」に置き換えられた。


 1993年、連戦が行政院長に任命されると、馬英九は法務部長に抜擢された。しかし地方の黒金勢力(賄賂をもらって政治権力を行使するもの)に対する攻撃から、国民党が長年築き上げてきた人脈は根底から揺るがされた。「これは一罰百戒が目的なのだから、全員罰する必要はない。」と不満を述べる者もいた。

 連戦に対する圧力は日増しに強くなり、1996年に李登輝が総統選に勝利するまで続いた。新党と民進党が合流し始めたため、とりあえず連戦を行政院長にとどめた。民意代表との会合の中で、連戦留任支持の条件のひとつが馬英九の解任であったという。1996年、馬英九は行政院政務委員に転任した。この点を指して、ある者は「虜囚の身からの解放」と言い、ある者は「過ちを改め、気持ちを新たにする機会を与えられた」と評し、意見が分かれる。

 翌年、連戦内閣は白曉燕誘拐殺人事件(白案)などによる批判をにさらされ、馬英九は「官職を辞し、選挙には出ない」との声明を発表し、1998年市長選から撤退した。その後、騒動を経て(締め切りの一ヶ月後に申し込んだ)政治大学に専任としての教職を得、以後教育に専念し政治には関わらないと表明した。「台北市長選に関する批評は行わない」との表明は200回以上に達した。しかし、ほどなくして1998年に、多くの人の勧めと父・馬鶴凌の説得を受けて、台北市長選党内予備選に出馬。当時馬英九は国民党内で唯一陳水扁再選阻止の望みがある候補者と見られていた。結果、党内予備選に勝ち、国民党台北市長選立候補者となった。

 1998年の台北市長選の主要立候補者は、民進党で再選を狙う前市長の陳水扁、国民党で政務官を辞任した馬英九、および新党で前立法委員の王建煊の三人。結局、馬英九が51.13%の得票率で陳水扁(得票率45.91%)、王建煊(得票率2.97%)を破り当選。選挙活動中、当時国民党主席であった李登輝は党の立候補者である馬英九支持の態度を明確にせず、暗に陳水扁を助けていると見られ、その理由が馬英九の出自(外省人)にある、と考える者もあった。しかし選挙数日前、李登輝は応援大会において馬英九の手を取って掲げ、「新台湾人」と呼んだ。これが馬の選挙情勢に助力したと見られている。

市政

プラス面
 
・台北MRT6路線が在任中に完工開通。

・復興北路自動車地下道の開通。

・交通の快速化、バス専用道路の設置、公共交通機関利用の推進、駐車、駐輪スペースの増加

・基隆河百齢橋など6つの橋のライトアップと景観改善

・台北小ドーム

・百キロ自転車用無障害路を設置。

・1行政区1市民スポーツセンター政策の推進。(ただし知人に利益を図ったとの疑いもある。)

・上下水道普及率引き上げ。台北市の汚水問題を改善。

・ゴミ収集袋購入制によるゴミ収集費の徴収。

・10の市立病院を市立総合病院に統合。

・台北101など東部地区の商業資源を統合。内湖ソフトウェア工業園区拡張。市内無線インターネットシステム「Wifly」の設置。

・大型藝芸術イベントの開催など芸術と文化活動の重視

・猫空と北投のロープウェイ計画

・マイノリティ重視政策。新移民会館分館の設置


マイナス面
・2001年台風ナリー(Nari)来襲時、洪水予測を誤り、排水拠点の設置に失敗、MRT地下線路が浸水し、青線が運転停止、台北駅は3ヶ月の使用停止となった。

・2001 年女子サッカーアジアカップを開催した際、台北市議員段宜康らは台北市に観客が中華民国国旗を持ち込まないよう取り締まらさせた一方、中共の五星紅旗12 枚は取り締まりを受けることなく場内に掲げられた。台北市によると台北市は協賛にすぎず、実際の主導したのは中華民国サッカー協会で、協会も自らが警察の協力を依頼したことを認めた。しかし国旗の強制没収は否定し、オリンピックモデルを踏襲した(「IOCに五星紅旗は登録されているが、我が国が登録しているのは「梅花旗」である」)と語った。

・2003年SARS流行期間中和平病院内で深刻な院内感染が発生。原因は一人の洗濯業者の感染後、十分な隔離措置がとられなかったこと、警戒の不十分、感染予防措置の落ち度など。和平病院は封鎖、930人の病院と接触のあった人が集中隔離され、その関係者家族は自宅隔離となった。病院関係者の57人が感染の疑いがもたれ、7人が死亡。一般人では97人が感染の疑い、24人が死亡した。和平病院の林重威医師は感染患者の治療中に自らも感染し、命を落とした。

・円環市場など老朽化した市場の再建について、しばしば事前のずさんな計画、手抜き工事、排煙、漏水問題などにより、再建後業績が悪化し、閉鎖に追い込まれる市場も出た。

・再開発の名の下に数々の古蹟を撤去。その一方で蒋経国の七海官邸など国民党要員にまつわる施設は市指定の古蹟に認定した。

・ルーズベルト通りおよび忠孝西路のバス専用道路について、路線計画と周辺の交通調査の失敗から、交通に支障を来たし、忠孝西路のバス専用道路は今に至るまで使用されていない。(07年8月現在)

・馬英九は台北市立「聯合病院」設立を推進したが、その後患者たらい回し事件が発生。父親の虐待を受けた少女が潤沢な医療資源を持つはずの台北市の治療を受けられず、台中の小児総合病院に送られたが脳死となった。

・猫空ロープウェイの故障続発。温帯高山地区での使用を想定されたロープウェイを熱帯地区の台湾にそのまま持ってきたことが原因とされる。

台北市長再選

 馬英九は市長当選後すぐに、2期つとめる意志を表明したが、02年台北市長選前、04年の総統選出馬のため市長選挙には立候補しないとの憶測が流れた。しかし、結局市長選に立候補し、「これまでとは違う方法」でこの選挙を戦うと宣言。政見の発表、市民討論会などを重視したため、民進党推薦の対立候補李應元も政見の発表を重視した。これにより、この選挙は純粋に政策によって争われた、近年まれに見るハイレベルな選挙だったとの見方もある。
 選挙期間中李應元陣営は、「香港脚(馬英九は香港生まれ、「水虫」の意味も)」、「特首(香港など中国特別行政区の首長、馬英九氏の「ひとつの中国」受け入れを揶揄)」などの呼称を多用し、メディアの影響のもと馬英九の出生スポットが当たり、「台湾への愛情」がないと攻撃された。芸能人の朱約信(芸名「豬頭皮」豚の頭の皮(料理名)の意)は「台北の犬」という歌を作り、馬英九を「犬」と称して攻撃した。陳水扁は李應元への応援演説の中で「馬英九が香港特首の董建華と会った回数は、台湾総統である私とより多い」(実際は数回会っただけ)と述べた。馬英九は終止笑顔で「ご指導に感謝します」との反応を繰り返すだけだった。その後馬英九は戦局を馬英九と陳水扁をリーダーとする民進党中央部との戦いに転化し、李應元を蚊帳の外に押しやった。結局馬英九は64.11%の高い得票率で李應元(35.89%)と圧倒して再選を果たした。

性格

座右の銘は「治事以敬,待人以誠」(注意深く事に当たり、誠意を以て人に当たる)

蒋経国は馬英九を「欠点のない人」と評した。

法務部時代のあだ名は「コンピューター人間」(まったく欠点のない人)

荒れた政界の中において馬英九は比較的「口が悪くない」タイプ。

馬英九は、1.契約関係にある人、2.協力関係にある人、3.監督関係にある人の3種類の人間からの贈り物は受け取るべきではないとする。

努力家で知られ、自身「頭が良くないと言われるのはかまわないが、努力が足りないとは言わせない」と話す。馬英九担当の記者は冗談で「給料を二倍もらわないと割に合わない」と語る。

政敵、中には国民党の政治家からも「軟脚蝦(軟弱者)」、「乖乖牌(女っぽい/ぶりっ子)」と揶揄される。メディアからは「不沾鍋(くっつかないフライパン、不正に関わらない反面、部下の不祥事などに対しても責任を逃れようとする態度を指す)」と彼の政治的潔癖性を形容。

批判や攻撃にさらされると、いつも「ご指導感謝します」の言葉でかわすやり方をよく使うため、インターネット上の流行語になり、敵対者からは「責任逃れ」との批判がある。一般的にその「理性的で温和な」態度は中間有権者層の期待と支持を集めていると見られる。

しかし、国民党主席に就いた後、陳水扁総統罷免運動が発生した際、06年6月7日「辞職しないならば、いい死に方をしない」「弾は込められた、後は引き金を引くだけ」「あなたに残された時間は多くない」など人が変わったような発言をし、騒動を引き起こした。馬英九は世論の圧力を受け、6月14日謝罪した。

生活
ジョギングと水泳が趣味。
二人の娘(馬唯中と馬元中)はともに米国の大学で学ぶ。馬唯中はアメリカ生まれのため、米国籍を所有。

メディアとの関係

緑陣営(民進党+台聯支持)はよく馬のことを「メディアが作った神」と批判する。
緑陣営メディアは、台湾中部で生まれた「台湾語よりも英語が上手、台湾よりも中国びいき」という対句をもって批判した。
緑陣営メディアは台湾語が台湾本土重視を表し、青陣営(国民党、親民党支持)は英語が国際化を表すと互いに譲らない。

政治的主張

 中台関係は現状維持を支持。中国の完全な民主化を持って統一の可能性を探る。

「三民主義の現代化」を以て党の中心思想とし、党の規範と精神を再興し、人心を引きつけ、08年政権奪取を目指す。

 中華民国を維持し、台湾独立にも中国の主張する一国両制にも反対。中華民国憲法と「九二共識」を基礎として、対等、相互尊重の前提のもと中台の平和と交流を促進する。「連胡会五項共同願景」を中台関係発展の指針とし、敵対関係の終結、平和協定への署名、共同市場の建設、最終的に統一を目指す考え。

法により党の財産を処理し、処分後の所得は退職した党職員のために優先的に供する。政党法を推進し政党間の公平な競争を維持。

党は選挙のための機構であるとともに、党の理想と使命感を顕現しなければならない。

積極的に青陣営をまとめ、各選挙で勝利を目指す。

国民党青年団を作り、総団長を副主席とする。

地方において勢力拡大と組織的動員に参与する民主行動団を推進。

「土豆(落花生)ボランティアグループ」を組織。

民進党政権に対抗するため、議会路線と街頭路線の相互運用。

つづく

非同額競選 複数の立候補者による選挙
同額競選 単独の立候補者による選挙
反躬自省 振り返って自省する
負笈 本箱を背負う→勉強する
含冤 han2yuan2 冤罪が晴れないままである
會晤 会見
殺雞儆猴 「鶏を殺して猿に警告」見せしめにする
繽紛  ㄅ|ㄣ ㄈㄣ  にぎやかな様子
就醫 病院に行って診察を受ける
染煞 SARSに感染する
熄燈 店などを閉鎖する

星期四, 5月 24, 2007

游錫堃 3 政治上の重要な業績(行政院長時代)


photo by Rico Shen

游錫堃1948年4月25日— )
(日本語読み:
ゆうしゃくこん、北京語ピンイン:Yóu xíkūn、英語表記:Yu Shyi-kun

行政院長時代

主な業績

(1) 経済成長率:2.17%から6.07%にまで引き上げる(2004)。

(2) 失業率:5.17%(2002) から4.44%(2004)まで低下。0.73%の低下は45万人に就業機会を与えたことになる。

(3) 資本支出予算執行率:81.2%(2001)から93.6%(2004)にまで引き上げ、過去の記録を更新。

(4) 金融改革:台湾の銀行不良債権比率は最高8.09(2002)から2.78(2004)まで下がり、国際基準に達した。これはひとつの金融改革の成功と言え、国際的評価を得た。

(5) 貿易総額:2301 億米ドル(2001)から3419 億米ドル(2004)まで成長。三年間で1118 億元の増加、成長率にして48.5%の高成長に達した。

(6) 外貨準備高:1222 億ドル(2001)から2417億米ドル(2004)、三年間の増加は1181億元、成長率95.6%、金額は政権交代前30年間の合計よりも多い。

(7) 国際ランキング:世界経済フォーラム(World Economic Forum"、略称WEF)の成長競争力ランキング:台湾は世界第7位、アジア第2位から、世界第4位、アジア第一位へとランクアップ、過去最高を記録。
 スイスローザンヌ・ビジネススクールIDM(国際経営開発研究所)の国家競争力ランキング:台湾は世界第16位(2001)から第12位(2004)へランクアップ。


三大改革計画
  1. 政治改革: 生活行政において暴力団資金の排除に真剣に取り組み、選挙における賄賂の授受を根絶し、行政文化の再生、社会道徳規範と理性秩序の回復、住民に暴力団のいない生活環境、及び清潔、清廉、効率的行政を提供。
  2. 金融改革: 短期票券(?)の集中管理、決算および交割制度(?)の確立。合理的な証券市場取引制度および健全な投資信託および投資顧問事業の管理と発展の推進。金融資産と不動産の証券化を推進。金融再建基金の充実。
  3. 財政改革: 着実な財政改革、健全な財政区分法の制定、租税構造の調整により、公共事業財源の拡充し、中央と地方財政資源の分配問題を解決し、国家資源の有効利用を促進。

2008国家発展重点計画の推進
  1. E世代人材の育成
  2. 文化クリエイティブ産業の発展
  3. 研究開発の国際基地
  4. 産業価値の向上
  5. 観光客倍増
  6. デジタル台湾
  7. 海港と空港の連結、手続きの簡略化、電子化
  8. 鉄道、道路網の整備、快速化
  9. 水と緑の建設(水資源の有効利用、土地区画整理、資源の再利用、上下水道整備、エコロジー経営建設)
  10. ふるさと新建設

新十大建設計畫

  1. 世界トップレベル大学と研究センター
  2. 国際芸術と流行音楽センター
  3. M台湾計画
  4. 台湾博覧会
  5. 台湾鉄道MRT化
  6. 第三次高速道路
  7. 高雄港大陸間コンテナセンター
  8. 北中南MRT
  9. 汚水処理下水道整備
  10. 平地貯水池および海水淡水化処理場
(未完)

メモ:

等於 děng yú に等しい
刷新 shuā xīn
外匯存底 外貨準備高
評比  比較評価する ランキングをつける
全球評比 世界ランキング
世界經濟論壇 世界経済フォーラム(World Economic Forum"、略称WEF)
桑管理學院 ローザンヌ・ビジネススクール(IDM)
IDM 国際経営開発研究所
厲行 lì xíng 真剣に取り組む、厳格に実施する
杜絕 dù jué 断ち切る,根絶する.

星期二, 5月 22, 2007

游錫堃 2 政治上の重要な業績(宜蘭県長時代)


photo by Rico Shen

游錫堃1948年4月25日— )
(日本語読み:ゆうしゃくこん、ピンイン:Yóu xíkūn
、英語表記:Yu Shyi-kun

宜蘭県長時代

《前書き》:
 游錫堃は「文化立県」を目標に掲げた初めての県市長で、8年の在任期間に極めて限られた資源を活用し、文化に関心を寄せる多くの人々を結びつけ、数多くの文化事業を新たに立ち上げた。特に「国際子供の遊び芸術祭」及び「国際名門大学レガッタ大会」が有名となり、「ふるさと創生の星」と称えられる。
 宜蘭は游錫堃の手によって素朴なご当地文化意識の提唱から徐々に地域総体造営、文化産業振興、学習社会の建設へと深化していった。台湾では初めて地方において具体的に文化芸術の課題を生活と産業価値を高めるための動力源へと転化した。「文化立県」の目標は人々に「宜蘭の選択、それは台湾の選択。宜蘭は台湾人の心のふるさと。」という言葉を信じさせる機会となった。
 1993年雑誌「天下」の世論調査によると、生活満足度が最も高い全国5県市の中で宜蘭県は第一位に躍進した。これにより全国的な知名度が上がっただけでなく、台湾本土に根を下ろした文化が革命的な影響力を持ち始めた。これにより宜蘭はこれまでにない発展を遂げ、その経験はまもなく宜蘭を出て、他の県・市の模範となり影響を与えた。

この時期の主は施政成果は以下の通り;

・本土教育の実施、北京語特別視からの解放。校内方言禁止という不合理な政策を撤廃。教育部に郷土教育を正式課程に組み込むよう推進。

・学校での本土芸術教授計画、校内での歌仔劇挙行の提唱を率先して実施。、中央政府に重視を促し、教育部が報奨制度の常設を検討することを求め、学校に対し本土民俗芸術の教授を推奨した。

・全国で初めて公立の歌仔劇団を創設ー蘭陽戲劇団

・全国で初めて郷土歴史館を創設ー宜蘭県史館

・全国で初めて地方博物館を計画ー蘭陽博物館

・公共事業の芸術化を実施ー蘭陽平原の美化

・「宜蘭厝」推進計画。これは台湾で初めての官が主導する民間住宅美化計画であり、これにより地域の景観を徐々に改善することを目的とする。

・学校設備の統一感を取り入れた校舎建て替えの総合計画は、政府が国教改建計画を実施する際のモデルとなり、各県・市政府が競って視察に訪れた。

・「歓楽宜蘭年」の実施。全国で唯一大晦日に全県民がともに行う「囲炉」となった。

・「宜蘭国際名門大学レガッタ大会」の実施。英オックスフォード、ケンブリッジ、米ハーバード、イェール、日本早稲田、慶応など有名大学が集結して冬山河でレガッタを漕ぐ。外交レベルでの「ミッションインポッシブル」を成し遂げたと称えられる。

・「国際子供の遊び芸術祭」の実施。数十万人を集め、収入を入場料のみに頼り、それでもおつりが出るほどの全国髄一の官製イベントとなった。

・県単位で「社区総体営造」を行った最初の県であり、初めて「全国社区総体営造博覧会」を受け持ち成功させた。

・住民の郷土歴史感覚を養うため、地方記念日-宜蘭記念日を定めた。堃仔(游錫堃の愛称)は、1996年宜蘭200周年記念日を行い、5部10ヶ月を超える大規模なイベントとなった。

・1992年区運動会を挙行。史上最低の経費で(わずか三億元)史上もっとも成功した区運動会となった。区運動会の模範となっただけでなく、宜蘭県民は尊厳と誇りを勝ち取った。


禁說 jìn shuō
迫使 pò shǐ
列為 liè wéi
率先 shuài xiān
薪傳 xīn chuán 比喻師生授受相傳不絕
歌仔戲 gē zǐ xì
促使 cù shǐ
催生 cuī shēng
普設
獎助 jiǎng zhù
厝 cuò
逐步 zhú bù
觀摩 guān mó
圍爐 wéi lú
牛津 niú jīn
劍橋 jiàn qiáo
哈佛 hā fó
耶魯 yé lǔ
早稻田 zǎo dào tián
慶應 qìng yīng
共聚 gòng jù
譽為 yù wéi
承辦 chéng bàn
訂定 dìng dìng
培養 péi yǎng
階段 jiē duàn
逾 yú 超える

星期二, 5月 15, 2007

游錫堃 1 生い立ち


photo by Rico Shen

游錫堃1948年4月25日— )
(日本語読み:ゆうしゃくこん、ピンイン:Yóu xíkūn
、英語表記:Yu Shyi-kun

台湾宜蘭県冬山郷太和村出身の政治家。現民進党主席、呂秀蓮、謝長廷、蘇貞昌とあわせて民進党の「四天王」と呼ばれる。

生い立ち

* 幼少時、家はとても貧しく農業を営む。

* 19歳の時、羅東鎮※で夜間学校に通う。当時既に青年党に加入。
  (※鎮=県の下の行政単位)

* 1985年、東海大学政治学部卒業。

* 政治にと関わりを持つようになると、すぐに民進党に加入。

* 2000 年に民進党が総統選に勝利するまでに、既に台湾省議員を2期8年と宜蘭県長を2期8年(1989年~1997年)を歴任。その間1994年から 1996年の間は行政院教育改革審議委員会委員を兼任。第二期県長時代、環境立県、観光立県、情報立県、文化立県が彼の主要目標であった。

* 1998年、台北市長陳水扁の要請を受けて、台北地下鉄理事長に一年間就任。陳水扁再選失敗の後、民心党主席林義雄の要請のもと民進党秘書長に就任。

* 2000 年5月20日、民進党が政権をとった後、中華民国行政院副院長に着任、行政院長唐飛を補佐する。しばらくして八掌溪事件の責任を取って辞任。総統府秘書長張俊雄が後を引き継ぐ。行政院副院長退任後、游錫堃は商業への従事を考えていたが、数ヵ月後、張俊雄の後を継いで中華民国総統府秘書長に就任。また、台北市北投区関渡の国立台北芸術大学伝統芸術研究所副教授も兼任。

* 2000年10月、唐飛が行政院長を辞職し、張俊雄が引き継ぐ。

* 2002年2月1日、内閣改造により中華民国行政院長に就任。

* 彼は民進党政権における在任期間最長(07年8月現在)の行政院長であり、期間はまる3年。在任中漁会、農会信用部の騒動により三度陳水扁に辞職を申し出た。
陳水扁が再選を果たした後、彼は大幅に内閣を改造し、任期を半分以上過ぎた県長及び市長を留任させた以外は、親しい部下を登用した。
後に民進党が国会で過半数を取れなかったため、再任されなかった。
2005年2月1日、中華民国総統府秘書長に転任。

* 2005年12月、民進党主席蘇貞は県長市長「三合一」選挙で敗れた責任を取って辞職した。
游錫堃は総統府秘書長辞任を辞任し、党主席補選に立候補すると発表した。

* 2006年1月15日、民進党第11回第二次主席補選の結果が発表された。游錫堃は25397票を以て蔡同榮の16846票の翁金珠の4406票を圧倒し、民進党党主席に当選した。
(07年8月現在)

メモ

生平 生い立ち
卸下 xiè xià 荷を降ろす
從商
兼任 jiān rèn
辭去 cí qù
閣揆 gé kuí 行政院長
足足 まる/ちょうど
風波 fēng bō
延攬 yán lǎn 
親信 親しい部下

星期五, 5月 11, 2007

蘇貞昌


photo by Rico Shen

蘇貞昌(1947年7月28日—)
(日本語読み:そていしょう、台湾語:Chiā Tiông-têng、北京語ピンイン:Zhēnchāng、英語表記:Su Tseng-chang )

 台湾屏東県出身、現中華民国行政院長、呂秀蓮、謝長廷、游錫堃とともに民進党の「四天王」と称される。他にも「電球」のあだ名も(ハゲ頭が電球に似ているため)。蘇貞昌自身もこの愛称が気に入っている。始めて台北県長に立候補した際、ラッキーアイテムとして「電球」を取り入れた。

経歴
 国立屏東中学、国立台湾大学法学部卒業。1980年陳水扁、謝長廷らと同様美麗島事件の被告弁護人を担当。総統府秘書長、屏東県長、台北県長、民進党第4期中央常務委員兼秘書長、台北市国際青年商会会長、国際青年商会中華民国総会副会長、民進党第一期中央常務委員兼組織部長、民進党創設党員、第三期立法委員、第七期第八期台湾省議員を歴任。

政治遍歴

省議員時代
 1980年台湾省議員に立候補し当選。游錫堃、謝三升と併せて「省議会鉄の三角形」と呼ばれた。台湾省政府は違法に予算を編成していると抗議し辞職。その後省議員に再選。

屏東県長時代
 1989年屏東県長選に出馬、国民党の候補者を破って当選。1993年、国民党整合屏東派が推す台湾交通所長伍澤元氏が、抹黑(疑惑を流す)キャンペーンにより蘇貞昌を攻撃し、その結果伍澤元氏に破れ再選を逃す。その後民進党秘書長に転任。

台北県長時代
 1997年台北県長選に出馬。前任の尤清(民進党)の任期中の業績には議論があり、さらに汚職事件が続出し、選挙前日に部下が逮捕されたことにより、選挙情勢は危険にさらされたため、当時重い癌を患っていた立法委員盧修一が跪いて票を求めた。結果、国民党推薦の謝深山を破って当選。
 2001年、青陣営の統一候補王建煊に対し、蘇貞昌は四年間の優れた業績を利用して基盤を安定させることに成功し、最終的には87万強対82万強で台北県長再選を果たした。

 陳水扁は2004年に中華民国総統再選を果たした後、2001年既に台北県長再選を果たしていた蘇貞昌を引き続き総統府秘書長に留めた。しかし当時の人々は游錫堃の後をついで行政委員長に就任する可能性が極めて高いと考えていた。2004年の立法委員選挙は過半数獲得に失敗し、蘇貞昌は民進党党主席選の候補者に指名された。しかしこのことは屏東県長再選選挙以来の挫折であると見られている。

 2005年1月30日、党主席党内直接選挙で候補者が1人だけという状況の下、蘇貞昌99.71%という得票率でスムーズに当選を果たし、同年2月15日第11代党主席に正式に就任した。

行政院長時代
 2005年12月3日、民進党が「三合一」選挙(台北市・高雄市の各直轄市を除く市長、県長、郷鎮市長の3首長+県議会議員選挙)に大敗したため、党内慣例により党主席を辞任。2006年1月19日修正予算案を提出したが陳水扁総統の支持を得られなかったため引責辞任を申し出た謝長廷に代わり陳水扁総統は蘇貞昌を行政院長に任命。

2008年総統選党内予備選に落選。

2007年5月12日、蘇貞昌は行政院長の職を辞すると発表。辞表を提出し既に陳水扁総統が承認した。民進党執政以来5回目の行政院長交代となる。


メモ

整合 ㄓㄥˇ ㄏㄜˊ to conform to integrate
推出 ㄊㄨㄟ ㄔㄨ
抹黑 ㄇㄛˋㄏㄟ 悪いうわさ・疑惑を流す
貪污 ㄊㄢ ㄨ (政治)汚職
門下 部下
穩住
基本盤
延ㄧㄢˊ 延長する
攬ㄌㄢˇ 独占する・つかむ・捕らえる
帶領ㄉㄞˋ ㄌㄧㄥˇ 導く
指派ㄓˇ ㄆㄞˋ指名する
接替ㄐㄧㄝ ㄊㄧˋ に代わる
辭呈ㄘˊㄔㄥˊ 辞表を提出する
批准ㄆㄧ ㄓㄨㄣˇ 承認する

星期二, 5月 08, 2007

謝長廷


photo by Rico Shen


謝長廷(1946年5月18日-)
(日本語読み:しゃちょうてい、台湾語:Chiā Tiông-têng、北京語:Xiè Chángtíng、英語表記:Frank Chang-ting )

 台湾の政治家。台北市大同区生まれ。台湾民主進歩党の創立メンバー。台北市議、立法委員。民進党が与党になった後、高雄市長、民進党党主席、中華民国行政院院長を歴任。2007年5月7日、熾烈な党内予備選を経て、正式に2008年中華民国総統直接選挙の立候補者となる。

 謝長廷の政治家としての道のりは決して順調であったとは言えない。しかし失敗を犯した際も常に融和的で柔軟な態度で応じ、台湾の政治論壇ではかつて彼の政治手法を「九命怪貓(死なない化け猫)」や囲碁の「二枚腰」をもって形容したことがある。

政治経歴
 民進党の命名者であり、民進党第9代党主席、高雄市長を歴任。2005年2月1日より游錫堃に変わって行政院長を引き継ぐ。2006年1月16日深夜、陳水扁総統は彼の内閣総辞職に同意した。
 暫く表舞台での活躍がなかったが、民進党を代表して2008年の中華民国総統選に出馬。

高雄市長時代
 1998年、高雄市長選挙中、外部からは評判の良くなかった謝長廷だが、対抗馬で再選を狙う現職高雄市長吳敦義が採った選挙戦略(テレビ広告の中で白冰冰を使って白曉燕事件の容疑者陳進興の家族弁護士であった謝長廷を「人でなし」と告発した。)が民衆の反感を引き起こした。さらに民衆は吳敦義の施政期間に何の建設もなされなかったことに失望を感じ、約4000票の僅差で予想外の当選を果たし、台湾南部の県、市において全て民進党が執政するという情勢が初めて生まれた。
 一般に、謝長廷は高雄市長任期中、大きな業績をあげたとされる。中時電子報が2006年12月26日に行なった世論調査によると、馬英九に80点以上の採点を与える台北市民は47%であるのに対し、52%の高雄市民が謝長廷に80点以上の採点を与えていることから見て、馬英九がやや劣る。

行政院長時代
 謝長廷は高雄市長在任中、環境問題の改善に尽力し顕著な成果を得た。《中国時報》2004年7月の世論調査では、謝長廷の施政満足度が初めて馬英九を超え、「高雄の経験」は高雄市民の誇りとなった。そしてその年立法委員選挙を経て、2005年1月陳水扁総統の指名により行政院長に就任。
 また、在任中「和解共生」の理念を提唱し、野党に対して低姿勢を示し、与野党和解の雰囲気を作り上げ、民進党執政後五年来のこう着状態を打破しようとした。しかし、重大な民生法案や予算案の通過は何度も立法院で否決され、後に立案提出した再審議案が野党に受け入れられなかったため、2006年1月に行政院長を辞職した。その後直ちに上級研究員の身分で、アメリカのハーバード大学ケネディースクールで研修を行なった。

台北市長選出馬
 2006年6月、民進党の要請に応じて台北市長選に出馬、52万5869票、得票率41%をもって落選。しかし得票率は予想を上回っており、また謝長廷のこれまでの業績や高雄市の椅子は守れたこともあり、選挙後謝長廷の声望は大きく上がり、総統就任を望む声は日増しに高まっている。

信仰
 謝長廷と妻游芳枝はともに新興宗教家宋七力の信徒である。


メモ

順遂 ㄕㄨㄣ4ㄙㄨㄟ4 上手く運ぶ/順調
圓融 ㄩㄢ2ㄖㄨㄥ2
屆 ㄐㄧㄝ4 量詞:會議/活動/任期
率 ㄕㄨㄞ4 率いる
沈潛 ㄔㄣ2ㄑㄧㄢ2
尋求 ㄒㄩㄣ2ㄑㄧㄡ2 追求する/探し求める
策略 ㄘㄜ4ㄌㄩㄝ4
邀請 ㄧㄠ1ㄑㄧㄥ3 招待する
控訴 ㄎㄨㄥ4ㄙㄨ4 告発する
頗有 ㄆㄛ3ㄧㄡ3 很有、非常有
政績 ㄓㄥ4ㄐㄧ1 官吏の業績/政治的業績
給予 ㄐㄧ3ㄩ3 与える(書)
略遜一籌 ㄌㄩㄝ4ㄒㄩㄣ4ㄧ1ㄔㄡ2 比喻兩相比較,其中一方稍為差一些
稍 ㄕㄠ1 やや/少し
營造 ㄧㄥ2ㄗㄠ4
僵局 ㄐㄧㄤ1ㄐㄩ2 こう着状態
一再 一度ならず/何度も
擬 ㄋㄧ3 立案する/起草する
覆議 ㄈㄨ4ㄧ4 再審議
隨即 ただちに/すぐさま
資深 ㄗ1ㄕㄣ1
哈佛大學 ㄏㄚ1ㄈㄛˊㄉㄚˋㄒㄩㄝˊ ハーバード大学
甘迺迪 ㄍㄢ1ㄋㄞ3ㄉㄧ2 ケネディー
進修 ㄐㄧㄣ4ㄒㄧㄡ1 研修する
守住