類型 日刊紙
版式 寬版
擁有者 聯合報系
創刊日 1951年9月16日
政治的立場 国民党寄り、保守派
言語 中国語正体字
価格 新台幣10元
本社 中華民国 中華民国台北市
網站 http://udn.com/
《聯合報》は中華民国で発行されている中国語新聞。1951年9月16日、王惕吾氏によって創立された台湾大手紙のひとつ。創立当時は《全民日報》、《民族報》および《經濟時報》から成る聯合版だったため「聯合報」と名付けられた。1953年に3紙が正式に合併し現在の形となる。
歴史
1951年9月16日,新聞メディアとして競争を生き残るため、《民族報》の王惕吾が《經濟時報》の范鶴言、《全民日報》の林頂立に3紙を合併して「聯合版」として運営することを呼びかけた。当時の名称は《全民日報、民族報、經濟時報聯合版》だった。1953年9月に《全民日報、民族報、經濟時報聯合報》と改め、1957年6月20日正式に《聯合報》と改めた。
《聯合報》は1951年の創刊後、1959年に国民党が発行する中央日報に替わり発行部数で台湾最大となる。行政院新聞局が「1989年1月1日を以て新聞の発行禁止は過去のものとなる」と正式に宣言(1987年12月1日)するまで聯合報の優勢は続いた。近年、新聞メディアの競争が熾烈となり、《蘋果日報》、《中國時報》、《自由時報》など大手紙の挑戦を受け、シェアは蘋果日報、自由時報に抜かれ、第3位の座を《中國時報》と争っている。
現在、聯合報系メディアは《聯合報》、《聯合晚報》、《經濟日報》、《Upaper》および専門家が経済・商業情報を提供する中國經濟通訊社(中経社)となっている。海外ではアメリカで《世界日報》、タイで《世界日報》と《歐洲日報》を発行する。
その他2000年、聯合報系は、聯合新聞網、聯合知識庫兩事業體を中心とし、網路城邦、數位閱讀網、數位版權網を事業とする聯合線上股份有限公司を設立した。聯合新聞網は聯合報系のインターネット上の電子メディアで、世界日報を除く聯合報系の新聞を掲載する。聯合知識庫は新聞データベースで、聯合報系メディアの記事50年分の記事および100万件の資料写真を収録。さらにブリタニカ百科事典、商業週刊などのデータベース検索もサポートする。
政治的立場
《聯合報》は保守的な論調を取ることが多く見られる。それは同紙の社説、署名記事、投書、および先の美麗島事件、刑法一百條および「青春達人國中生性教育學生自學手冊」(中学生の性教育冊子)などに対する見方に表れる。
政治報道に関し、《聯合報》は「統一派メディア」と称され、「大中国」的な立場を称揚し、李登輝が政権を握るまでは国民党に対する批判を行うことは少なかった。ただし、政府の政策が行き過ぎた場合を除く。例えば1954年内政部が《新聞禁例》を公布した際、《聯合報》は「歴史上前例のない新聞禁止令」など3篇の社論を掲載し、新聞の自由を制限する政策に反対を表明した。その後行政院は同案を撤回した。また、1958年に政府が《出版法》を修正し、行政機関に新聞・雑誌に対する行政処分権を付与しようとした際、《聯合報》は修正は違憲であるとする社説9篇を発表して反対した。
聯合報は民間のメディアであるが、発行人の王惕吾氏は国民党の中央常務委員であったため、泛綠陣営とその支持者は国民党の「御用新聞」と見なされている。李登輝総統の執政期間、聯合報は「中国」と「台湾」の結びつきを弱めようとする李登輝総統に反対する立場から野党的な論陣を張た。ただ、泛綠陣営の民進党に近づいたわけではなく、新党や親民党といったその他泛藍政党に接近した。
2000年に民進党が政権を取り、李登輝が国民党を離脱した後、《聯合報》は民進党政府に対する批判を強め、泛藍陣営寄りの立場をより鮮明なものとした。聯合報は民進党から悪評を受けていたため、政権交代後は泛藍陣営の読者を完全に失った。選挙に際し聯合報は「良いニュースを多く報道」、「多めに賞賛」、「プラスイメージを作り上げる」などの方式で国民党候選者寄りの立場を明確にする。例)2006年の台北市長選。[1]
中国大陸に対する聯合報の報道、政治など敏感な問題への言及が比較的少なく、中国の民生問題に重きを置く。聯合報は西進政策(中国との経済交流拡大政策),を支持し、国民党の馬英九総統が進める両岸(中台)和解・協力政策に楽観的な見方を示す。中国経済の成長に対し、聯合報じは楽観と許容の立場を見せる。傘下の聯合新聞網、東森nownewsおよび中時電子報といったインターネットメディアは、中国当局の閲覧規制を受けていないため中国市民が台湾を理解する重要なメディアとなっており、多くの中国ネットユーザーがアクセスしている。
星期二, 7月 14, 2009
星期四, 8月 07, 2008
星期日, 6月 29, 2008
王金平
王金平(1941年3月17日-)[wáng jīn píng:おうきんぺい:Wang, Jin-Pyng]
台湾高雄県路竹郷出身、現任の中華民国立法院長。
台南一中初中部および高中部を卒業、その後国立台湾師範大学数学系に入学。卒業後、省立彰化進徳中学で教育実習を行う。しかし兵役終了後、家業の食品工場に就職し、輸入関係の業務を担当する。
1975年末、高雄県工業会理事長を務めていた王金平は国民党地方党部に見いだされ、推薦を受けて第2次立法委員増員選挙に立候補する。家族と高雄県工業会の影響力は大きく、19万票の高い得票で立法委員に当選。1993年2月1日、王金平は第2期立法員副院長選挙への立候補者として指名され、高い得票で当選。1999年2月1日には立法院院長に当選。
王金平は1990年に国民党中央政策会副主任委員に就任し、党の政策決定で中心的な役割を果たすようになる。1991年からは立法院工作会主任および党団書記長も兼任し、立法院における国民党を代表する政治家となる。1992年に党中央常務委員に当選、2000年に国民党が政権を失った後、党副主席に就任。野党となった国民党において5院の長である王金平は同党では最高位の公職に就く人物となった。
王金平は国民党内の台湾本土派を代表する人物で、南部地区および低所得者層で強大な支持基盤を持つ。ただし李登輝元総統との関係が密接なため、統一派からはやや不信感を持たれている。2005年3月、連戦主席(当時)が再選を目指さないことを正式に宣言したため、王金平は国民党主席選挙に立候補する。選挙の相手となった馬英九は人気こそ高かったものの、王金平もその政治手腕を高く評価されており、党内各派閥や長老たちとの関係も良好だったことから、侮れないとみられた。しかし2005年7月16日に実施された中国国民党主席選挙の結果、馬英九が大差をつけて王金平を敗った。その後王金平は馬英九の要請を拒否し国民党副主席を辞職した。ただし、王金平はその際中国国民党の永久ボランティアとなると宣言した。
国民党陣営が立法員で新版中央選挙委員会(中選会)組織法を決議しようとした際、民進党側はこれを違憲としてボイコットすべきと見なした。2007年1月19日、立法院における与野党の乱闘はアメリカのケーブルテレビネットワーク、CNNのヘットラインとして報道された。民進党は議事進行をボイコットするためバイク盗難予防チェーンで扉を施錠して王金平を院長室に「監禁」した。これは議長が立法委員「監禁」された初めてのケース。
王金平のプロフィール
性別: 男
政党: 中国国民党
本籍地: 台湾高雄
出生: 1941年3月17日 (1941-03-17) (67歲)
日本統治下の台湾高雄州路竹荘
配偶者: 陳彩蓮
学歴: 国立台湾師範大学数学系卒(1963年)
経歴
* 高雄県工業会理事長 (1975年-1981年)
* 立法院(第一期増員)委員 (1976年-1993年)
* 中国国民党立法院工作会主任 (1991年-1993年)
* 中国国民党立法院党団書記長 (1991年-1993年)
* 中日国会議員聯誼会会長 (1992年-)
* 中国国民党中央常務委員 (1992年8月-2000年6月)
* 立法院(第二期)副院長 (1993年-1996年)
* 立法院(第三期)副院長 (1996年-1999年)
* 台湾プロ野球リーグ会長 (1997年-2002年)
* 台湾がん基金会董事長 (1997年-)
* 中華民国義勇消防総会理事長 (1997年-)
* 立法院(第四期)院長 (1999年-2002年)
* 中国国民党副主席 (2000年6月-2005年)
* 立法院(第五期)院長 (2002年-2005年)
* 立法院(第六期)院長 (2005年-2008年)
* 立法院(第七期)院長 (2008年-)
* 中国国民党政策会副主任委員
* 中華民国立法委員協会理事長
* 国家バイオテクノロジー医療発展委員会会長
* 中華民国バリアフリー推進協会名誉理事長
星期六, 6月 21, 2008
蔡英文
蔡英文(1956年8月31日-)[cài yīng wén:さいえいぶん]
台湾の学者および民主進步党に籍を置く政治家。「二国論(中国と台湾が特殊な国と国の関係にあるとした論文、李登輝が発表)」起草に参加、2000年に民進党が政権を取った後、行政院大陸委員会(陸委会)主任委員に就任。2004年民進党入党、同年全国比例区から立法委員に当選。2006年行政院副院長に就任。派閥体質の民進党において派閥色のない蔡氏は、清潔なイメージも手伝って一部のメディアからは「小龍女」[1]あるいは「白玫瑰」の愛称で呼ばれる。現民進党主席(2008年6月現在)。
[1] 「小龍女」...著名な作家、金庸の武侠小説「神鵰俠侶」の女主人公の名前。孤高の存在で、独世俗的な汚れを持たない清廉なキャラクター
生い立ち
屏東県枋山郷楓港出身。屏東客家の望族に属する。実家はかなり裕福で、父親の蔡潔生は、彼女が小学4年のとき、台北市の中山区中山北路と新生北路に少なからぬ土地を購入。国立台湾大学法律系を卒業後、米国コーネル大学法科大学院で法学修士を取得、また英国ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士を取得した。帰国後経済部国際経済組織の主席法律顧問、国立政治大学、東呉大学法律系所、国際貿易研究所の教授を歴任。
90年代後期から中華民国国家安全会議の諮問委員に招聘され、二国論の起草に参与し李登輝総統(当時)に重用される。民進党政権となり、陸委会主任委員に就任し両岸(中台)政策を担当。2004年に請われて民進党に入党、2004年中華民国立法委員選挙で比例代表区から名簿第6位で立候補し当選。2006年1月に行政院副院長に就任。
民進党主席
2008年4月17日、蔡英文は民進党の主席選挙に立候補を表明、蔡同栄、辜寛敏の両氏との争うことになる。5月18日、民進党主席選挙において73865票を獲得し、辜寛敏(48882票)および直前に事態を表明した蔡同栄(6530票)を下して第十二代民主進步党主席に当選。民進党史上初めての女性主席の誕生となった。
5月20日、正式に民主進步党第12代主席に就任。5月21日、「希望」と題して就任演説を行う。
星期日, 6月 15, 2008
蕭万長
蕭万長(1939年1月3日-)[蕭萬長:萧万长:xiāo wàn cháng:しょうばんちょう、Vincent Siew]
現任の中華民国副総統。2000年の総統選挙に国民党から連戦氏とペアで副総統に立候補し落選。さらに2007年6月23日、国民党の総統候補、馬英九氏に乞われ、2008年総統選挙でも再び副総統候補として立候補し、当選を果たす。常に笑顔を絶やさないことから「微笑老蕭」(スマイリー・ヴィンセント)の愛称で呼ばれる。
1939年1月3日、5男2女の三男として日本統治下の台南州嘉義市に生まれる。
1951年嘉義市大同国小を卒業
1957年嘉義中學高中部を卒業
1957年-1965年国立政治大学外交系、大学院
1978年、台湾とアメリカが断交した際,「永久最恵国待遇」を得るための談判に国貿局副局長として渡米した。
1993年と94年、行政院経済建設委員会(経建会)主任委員在任時、2回にわたりアジア太平洋経済協力会議に中華台北代表として出席。
1994年、台北市長選に国民党から蕭万長を立候補者にとの声が聞かれたが、当人に意欲はなかったことに加え、世論調査でも勝算は低く、友人の宋楚瑜などから反対されたこともあって、参選せず。(台北市長には陳水扁氏が43.7%の得票率で当選)
1995年、第3期立法委員選挙に故郷、嘉義市から立候補。民主進步黨の蔡同栄氏を敗って立法委員に当選。のちに行政院長に就任したため、立法委員を辞職した。これによる立法委員補選では先に蕭万長氏に敗れた蔡同栄氏が当選。
1996年末、李登輝総統(当時)が招集した「国家発展会議」では、国民党を代表して民進党との協議を行った。
1997年、連戦内閣が総辞職し、蕭万長氏が後を継いで行政院長に就任した。任期中の両岸(中台)政策は「戒急用忍(急がず忍耐強く)」。
1998年、行政院長任期中に金融不安が起き、東隆五金、禾豊集団、国揚実業、台中企銀、順大裕など上場企業株が突然紙切れに変わる「地雷株」となった。
1999年末、国民党の指名を受けた連戦総統候補のペアとして蕭万長氏は副総統候補となる。
2000年、国民党は総統選に敗れ、政権交代となり蕭万長氏は行政院長を辞職した。また、この年蕭万長氏は国民党副主席に任命される。
2005年3月、「世代交代」を理由に国民党副主席を辞任し、国民党中評会主席団主席に就任。
2006年、世界経済について解説する年代新聞のテレビ番組、「藍海年代」の司会を務める。
2007年6月、経済的なバックグラウンドおよび中台に広い人脈を持つことを買われ、国民党の総統選立候補者、馬英九氏の要請を受けて再び副総統候補となる。
2008年4月12日、「両岸共同市場基金会董事長」の名義で中国・海南省で行われる「ボアオ・アジア・フォーラム」に参加し、その中で胡錦濤中国国家主席と会談。「両岸融氷之旅」と題した今回の行程を蕭万長氏は「正視現実,開創未来,擱置爭議,追求双贏」(現実を正視し、未来を開く、争議を置いて、双方の利益を追求)と今後の中台関係を16文字で表し、中台の経済、政治に新たな局面をもたらす決意を示した。
星期五, 1月 11, 2008
蒋孝厳

蒋孝厳(1942年5月2日—)[蔣孝嚴:蒋孝严:jiǎng xiào yán:ㄐㄧㄤ3 ㄒㄧㄠ4 ㄧㄢ2:しょうこうげん]
もとの名を章孝厳、中国国民党所属の立法委員(国会議員)、元中華民国外交部長(外相)。
蒋孝厳と章孝慈は元中華民国総統、蒋経国とその情婦、章亜若との間に生まれた双子の兄弟。二人は抗日戦争時代、中国の桂林にて出生。蒋経国はすでに蔣方良と結婚していたため二人は私生児として母親の章姓を名乗ることとなった。しかし、名は蒋経国の他の子女と同じく「孝」の字を取っている。
1972年8月、章亜若が何者かに殺害され、兄弟は章亜若の弟、章浩若とその妻、紀琛によって育てられた。この叔父と叔母は戸籍上二人の実の父母として記載されていたが、2002年正しく改められた。国共内戦時、二人は母方の祖母、周錦華とともに台湾新竹に移住。国立新竹高級中学を卒業後、東呉大学に入学。
1974年から1977年まで中華民国駐米ワシントン大使館に勤務。この期間ジョージタウン大学で理学修士の学位を取得。
蒋孝厳と妻、黄美倫には娘、惠蘭、惠筠と息子萬安がいる。
キャリア
1996年6月10日から1997年10月20日まで、中華民国外交部長を担当。任期中に断交となった国は、ニジェール、バハマ、セントルシアの3カ国で、南アフリカもまもなくの断交を発表した。断交国数は当時の外交部長では比較的多いものだった。(要ソース)
中華民国総統府秘書長を担当時、芸能人の王筱嬋とのスキャンダルにより辞任。
2006年1月、民進党政権の中華民国政府によるリビアとの関係発展をみた蒋孝厳は新聞に投書し、リビアを「軍事独裁国家」、「国民党時代なら見向きもしなかった」と批判し、リビア元首のカダフィー少佐の国際的評価も国内として、民進党政府は「貧するとも相手を選ぶべき」との考えを述べた。
4カ月、陳水扁総統がリビア訪問した後、アメリカとイギリスがリビアと国交を回復。リビアはその数年、欧米各国との間で協調を達成し、その関係を大きく改善していた。とくにイギリスは3月25日、ブレア首相自らがリビアを訪問しており、中華民国外交部の試みは「相手を選ばない」やり方ではなく、蒋孝厳の批判は明らかに世界情勢の変化を捉え切れていなかったと言える。
2006年4月6日、台北市長選の中国国民党予備選に出馬するものの、形成不利とみて撤退。
2001年より台北市南区および北区から第5次および第6次立法委員に当選。別々の選挙区からの出馬は、台北市長選を念頭に置いたものとみられたがそれは叶わなかった。2008年中華民国立法委員選挙が小選挙区制となった関係で、台北市第3選挙区(中山区および松山区=雙山)での立候補となった。
2005年3月、正式に姓を蒋と改め、子女も将来これに従うと宣言した。
プロフィール
性別: 男
政党: 中国国民党
籍貫: 江西省南昌市
出生: 1942年5月2日
学歴: * 東呉大学外文系卒業 (1964年)
* 米ジョージタウン大学修士 (1976年)
* ブリュッセル自由大学研究生
キャリア:* 外交部北米司(薦任)科員(1971年-1974年)
* 駐米大使館(三等)秘書(1974年)
* 駐米大使館(二等)秘書(-1977年)
* 外交部北米司科長(1978年-)
* 外交部北米司專門委員
* 外交部北米司副司長(-1980年)
* 北米事務協調委員会副秘書長(1981年11月-1982年6月)
* 北米事務協調委員会秘書長(1982年6月-1982年9月)
* 外交部北米司司長(1982年6月8日-1986年10月24日)
* 外交部常務次長(1986年10月24日-1990年2月17日)
* 中国国民党中央委員会委員(1988年)
* 中国国民党中央委員会海外工作会主任(1990年)
* 外交部政務次長(1990年8月24日-1993年3月5日)
* 外交部研究設計委員会主任委員(1990年10月19日-1993年3月5日)
* 行政院青年輔導委員会委員(1990年11月15日-1993年5月7日)
* 行政院文化建設委員会委員(1993年2月27日-1997年)
* 僑務委員会委員長(1993年2月27日-1996年6月8日)
* 僑務委員会僑務工作研究促進委員会主任委員(1993年2月27日-1994年)
* 行政院大陸委員会委員(1993年3月11日-)
* 中国国民党中央常務委員(1993年)
* 外交部部長(1996年6月8日-1997年9月1日)
* 行政院国軍退除役官兵輔導委員会委員(1996年8月8日-1997年)
* 国民大会(第三次)代表(1996年-1999年)
* 行政院副院長(1997年9月1日-1997年12月10日)
* 中国国民党中央委員会秘書長(1997年)
* 行政院消費者保護委員会(兼)主任委員(1997年)
* 総統府秘書長(1999年11月18日-1999年12月22日)
* 総統府資政(1999年12月23日-2000年5月20日)
* 大華投信公司董事長(2000年-)
* 中華国家発展協会理事長(2000年-)
* 中国国民党中央常務委員(2000年-)
* 中国台商発展促進会理事長(2001年-)
* 立法院(第五次)委員(2002年-2005年)
資格: * 甲等外交領事人員特考合格(1978年)
星期日, 12月 23, 2007
中華民国公民投票法(2006年5/30修正)
中華民国公民投票法(住民投票法)
第一章 総則
第1条
国民主権の原則に基づき、国民による民権の直接行使を確保するため、本法律を制定する。本法律に規定のないものは該当するその他の法律に準拠する。
第2条
本法律の言うところの公民投票(住民投票)は、全国性および地方性の公民投票を包括する。
全国性公民投票は以下の事項に適用される。
1.法律に対するreferendum(意見聴取)
2.立法原則の発議権行使(initiative)
3.重大政策の発議権行使(initiative)あるいはreferendum(意見聴取)
第30条
住民投票の結果、投票人数が全国、直轄地、県(市)の有権者総数の二分の一以上、かつ有効投票数のうち2分の1の同意を得た場合可決される。
投票人数が全校規定数に満たない、あるいは同意が有効投票数のうち二分の一を超えない場合は、いずれも否決となる。
第一章 総則
第1条
国民主権の原則に基づき、国民による民権の直接行使を確保するため、本法律を制定する。本法律に規定のないものは該当するその他の法律に準拠する。
第2条
本法律の言うところの公民投票(住民投票)は、全国性および地方性の公民投票を包括する。
全国性公民投票は以下の事項に適用される。
1.法律に対するreferendum(意見聴取)
2.立法原則の発議権行使(initiative)
3.重大政策の発議権行使(initiative)あるいはreferendum(意見聴取)
第30条
住民投票の結果、投票人数が全国、直轄地、県(市)の有権者総数の二分の一以上、かつ有効投票数のうち2分の1の同意を得た場合可決される。
投票人数が全校規定数に満たない、あるいは同意が有効投票数のうち二分の一を超えない場合は、いずれも否決となる。
星期日, 8月 12, 2007
馬英九
photo by Jiang
馬英九(1950年7月13日—)
(日本語読み:ばえいきゅう、北京語ピンイン:Mǎ Yīngjiŭ、英語表記:Ma Ying-jeou )
中華民国第12代総統
香港生まれ、1993年から1996年まで中華民国法務部部長。1998から2006年まで台北市長。2005年8月19日就任中国国民党(国民党)主席(蒋経国、李登輝、連戦に続く第四代党主席、また、複数の候補者が党員による直接選挙で争って決まった最初の主席)
妻は周美青、娘が二人。
馬英九は、現在の国民党の中間世代を代表する政治家で、最も大衆的魅力を持つ政治スターと目されている。
2007年2月13日、台北市長在任中の首長特別費の使用を巡り、汚職横領罪の疑いで台湾高等法院検察署により起訴された。以前から起訴されれば主席を辞任すると発言しており、同日主席辞任を願い出ると同時に2008年の中華民国総統選出馬を表明した。
生い立ち
香港九龍広華医院に生まれる。当時の住所は調景嶺。父親の馬鶴凌は抗日戦争時、青年軍に参加、馬鶴凌の公職における最高の地位は行政院青輔会処長(十二職等)。退職前の地位は国民党中央考紀会副主委。母親の秦厚修は中央銀行外国為替局主任を務めたことがある。6人兄弟で馬英九以外は全て女児。祖先は湖南省湘潭県馬家堰出身。
一歳の時、両親とともに台湾へ移住。中学時代は台北大安初中に学ぶ。高校は台北市建国中学、台湾大学法律系(法学部)卒業後ただちに予備役に就く。海軍左営後方司令部(左營海軍後勤司令部)に勤務。1974年、中国国民党中山奨学金を得て、米国で法律を学び、ニューヨーク大学法学博士およびハーバード大学法学博士の学位を取得。
馬英九はハーバード大在学時、課外活動としてボストン通信(波士頓通訊)の主編を務め、同時にニューヨーク市ウォール街のコール&ダイツ(Cole & Deitz)法律事務所で弁護士実習生、メリーランド大学(University of Maryland)法学院の研究顧問を務める。さらに反共愛国連盟に参加したとの指摘もあるが、本人は認めていない。
以下は馬英九がボストン通信主編を務めていた時の文章
--------------------------------------------------------------
* 中央民意代表新陳代謝問題は、二つの原則によって実現すべき。ひとつは国内の新しい政治勢力を反映すること、ひとつは憲法精神を維持すること。
* ただちに戒厳令を解くことには賛成しない。ただし政府は人権保障を拡大し軍事管制を縮小することを原則として戒厳令に関する法規を全面的に見直すべき。
* 台湾独立勢力処理問題:最高指導原則は「敵ではなく同志」であり、我々は、十数年もの国内教育を受け、経済的繁栄を享受している若者が海外留学の後、なぜ台湾独立に同情を抱いたり支持したりするのか振り返って自省しなければならない。
* 228事件問題:我々は確信している。あの悲劇の中、一定数の無辜の人々が被害を受け、命だけではなく、名誉も失い、現在に至るまで「叛乱者」の名を着せられ冤罪が晴れていないことは間違いない。いつの日か名誉回復がなされるべきである。
* 台湾独立勢力の「多数統治」について。すなわち多数を占める閩南系住民が台湾を統治すべき、との主張には、「機会均等」を持って対応すべき。省籍を分けて考えるのではなく、全ての人が競争に対して等しく機会を得られるようにすること。
--------------------------------------------------------------
卒業後、メリーランド大学法学院研究顧問、ボストン第一銀行法律顧問を務め、同時にニューヨークの法律事務所に勤務。
政界進出
1981年:帰国。政界への進出を開始する。帰国後すぐ、公務員試験を経ずに総統府第一局副局長、すなわち蒋経国の英語通訳に就任。
1984年:国民党中央党部秘書長
1986年:甲等特別試験を通過。
1988年:行政院研考会主委兼大陸委員会(陸委会)工作会報執行秘書。
1990年:国家統一委員会研究員。
1991年:陸委会副主委兼スポークスマン。国民党不分区国民大会代表に当選。
逸話
* 総統府第一局副局長時代、総統への陳情を目にする機会のあった馬英九は、当時反乱罪で緑島の刑務所に収監されていた陳明忠の病気治療のための保釈希望を見て、その陳情への協力を決め、陳明忠は仮出所を獲得した。馬英九と陳明忠の間に面識はなかった。
* 呂秀蓮の入獄中、馬英九はハーバード大学の恩師・孔傑栄が病気治療外出中の呂秀蓮と三軍総合病院の応接室で会見できるよう手配した。
* 蒋経国が国会改革を決めた際、多くの者が「中央民意代表機構充実方案(充實中央民代機構方案)」を提出し「大陸代表制」設立を勧めた。馬英九はこれに対し、二度に渡り蒋経国の自宅を訪れ「大陸代表制」反対の理由を語った。蒋経国は終止笑いながら「要らないな」と答えた。後に蒋経国は自ら「台湾人」であると称して、大陸代表制構想を覆した。
* 1992年6月、馬英九はバークレーへ赴き、両岸(中台)関係の座談会に参加した。中国は秘密裏に汪道涵と会見してほしいとの意向を伝えたが、馬英九はこれを拒絶した。
* 1980年、馬英九は「国家統一綱領」の起草を担当した。当時注目を集めたのは、中国との統一時期とその方法だった。馬英九が提案したのは「中国との統一とその方法は、まず理性的、平和的、対等、互助の原則の下、台湾地区住民の意思、並びに安全と福祉を尊重し、段階的に順をおって達成すべき。」というものだった。後に「台湾地区住民の意思」の「意思」は「権益と福祉」に置き換えられた。
1993年、連戦が行政院長に任命されると、馬英九は法務部長に抜擢された。しかし地方の黒金勢力(賄賂をもらって政治権力を行使するもの)に対する攻撃から、国民党が長年築き上げてきた人脈は根底から揺るがされた。「これは一罰百戒が目的なのだから、全員罰する必要はない。」と不満を述べる者もいた。
連戦に対する圧力は日増しに強くなり、1996年に李登輝が総統選に勝利するまで続いた。新党と民進党が合流し始めたため、とりあえず連戦を行政院長にとどめた。民意代表との会合の中で、連戦留任支持の条件のひとつが馬英九の解任であったという。1996年、馬英九は行政院政務委員に転任した。この点を指して、ある者は「虜囚の身からの解放」と言い、ある者は「過ちを改め、気持ちを新たにする機会を与えられた」と評し、意見が分かれる。
翌年、連戦内閣は白曉燕誘拐殺人事件(白案)などによる批判をにさらされ、馬英九は「官職を辞し、選挙には出ない」との声明を発表し、1998年市長選から撤退した。その後、騒動を経て(締め切りの一ヶ月後に申し込んだ)政治大学に専任としての教職を得、以後教育に専念し政治には関わらないと表明した。「台北市長選に関する批評は行わない」との表明は200回以上に達した。しかし、ほどなくして1998年に、多くの人の勧めと父・馬鶴凌の説得を受けて、台北市長選党内予備選に出馬。当時馬英九は国民党内で唯一陳水扁再選阻止の望みがある候補者と見られていた。結果、党内予備選に勝ち、国民党台北市長選立候補者となった。
1998年の台北市長選の主要立候補者は、民進党で再選を狙う前市長の陳水扁、国民党で政務官を辞任した馬英九、および新党で前立法委員の王建煊の三人。結局、馬英九が51.13%の得票率で陳水扁(得票率45.91%)、王建煊(得票率2.97%)を破り当選。選挙活動中、当時国民党主席であった李登輝は党の立候補者である馬英九支持の態度を明確にせず、暗に陳水扁を助けていると見られ、その理由が馬英九の出自(外省人)にある、と考える者もあった。しかし選挙数日前、李登輝は応援大会において馬英九の手を取って掲げ、「新台湾人」と呼んだ。これが馬の選挙情勢に助力したと見られている。
市政
プラス面
・台北MRT6路線が在任中に完工開通。
・復興北路自動車地下道の開通。
・交通の快速化、バス専用道路の設置、公共交通機関利用の推進、駐車、駐輪スペースの増加
・基隆河百齢橋など6つの橋のライトアップと景観改善
・台北小ドーム
・百キロ自転車用無障害路を設置。
・1行政区1市民スポーツセンター政策の推進。(ただし知人に利益を図ったとの疑いもある。)
・上下水道普及率引き上げ。台北市の汚水問題を改善。
・ゴミ収集袋購入制によるゴミ収集費の徴収。
・10の市立病院を市立総合病院に統合。
・台北101など東部地区の商業資源を統合。内湖ソフトウェア工業園区拡張。市内無線インターネットシステム「Wifly」の設置。
・大型藝芸術イベントの開催など芸術と文化活動の重視
・猫空と北投のロープウェイ計画
・マイノリティ重視政策。新移民会館分館の設置
マイナス面
・2001年台風ナリー(Nari)来襲時、洪水予測を誤り、排水拠点の設置に失敗、MRT地下線路が浸水し、青線が運転停止、台北駅は3ヶ月の使用停止となった。
・2001 年女子サッカーアジアカップを開催した際、台北市議員段宜康らは台北市に観客が中華民国国旗を持ち込まないよう取り締まらさせた一方、中共の五星紅旗12 枚は取り締まりを受けることなく場内に掲げられた。台北市によると台北市は協賛にすぎず、実際の主導したのは中華民国サッカー協会で、協会も自らが警察の協力を依頼したことを認めた。しかし国旗の強制没収は否定し、オリンピックモデルを踏襲した(「IOCに五星紅旗は登録されているが、我が国が登録しているのは「梅花旗」である」)と語った。
・2003年SARS流行期間中和平病院内で深刻な院内感染が発生。原因は一人の洗濯業者の感染後、十分な隔離措置がとられなかったこと、警戒の不十分、感染予防措置の落ち度など。和平病院は封鎖、930人の病院と接触のあった人が集中隔離され、その関係者家族は自宅隔離となった。病院関係者の57人が感染の疑いがもたれ、7人が死亡。一般人では97人が感染の疑い、24人が死亡した。和平病院の林重威医師は感染患者の治療中に自らも感染し、命を落とした。
・円環市場など老朽化した市場の再建について、しばしば事前のずさんな計画、手抜き工事、排煙、漏水問題などにより、再建後業績が悪化し、閉鎖に追い込まれる市場も出た。
・再開発の名の下に数々の古蹟を撤去。その一方で蒋経国の七海官邸など国民党要員にまつわる施設は市指定の古蹟に認定した。
・ルーズベルト通りおよび忠孝西路のバス専用道路について、路線計画と周辺の交通調査の失敗から、交通に支障を来たし、忠孝西路のバス専用道路は今に至るまで使用されていない。(07年8月現在)
・馬英九は台北市立「聯合病院」設立を推進したが、その後患者たらい回し事件が発生。父親の虐待を受けた少女が潤沢な医療資源を持つはずの台北市の治療を受けられず、台中の小児総合病院に送られたが脳死となった。
・猫空ロープウェイの故障続発。温帯高山地区での使用を想定されたロープウェイを熱帯地区の台湾にそのまま持ってきたことが原因とされる。
台北市長再選
馬英九は市長当選後すぐに、2期つとめる意志を表明したが、02年台北市長選前、04年の総統選出馬のため市長選挙には立候補しないとの憶測が流れた。しかし、結局市長選に立候補し、「これまでとは違う方法」でこの選挙を戦うと宣言。政見の発表、市民討論会などを重視したため、民進党推薦の対立候補李應元も政見の発表を重視した。これにより、この選挙は純粋に政策によって争われた、近年まれに見るハイレベルな選挙だったとの見方もある。
選挙期間中李應元陣営は、「香港脚(馬英九は香港生まれ、「水虫」の意味も)」、「特首(香港など中国特別行政区の首長、馬英九氏の「ひとつの中国」受け入れを揶揄)」などの呼称を多用し、メディアの影響のもと馬英九の出生スポットが当たり、「台湾への愛情」がないと攻撃された。芸能人の朱約信(芸名「豬頭皮」豚の頭の皮(料理名)の意)は「台北の犬」という歌を作り、馬英九を「犬」と称して攻撃した。陳水扁は李應元への応援演説の中で「馬英九が香港特首の董建華と会った回数は、台湾総統である私とより多い」(実際は数回会っただけ)と述べた。馬英九は終止笑顔で「ご指導に感謝します」との反応を繰り返すだけだった。その後馬英九は戦局を馬英九と陳水扁をリーダーとする民進党中央部との戦いに転化し、李應元を蚊帳の外に押しやった。結局馬英九は64.11%の高い得票率で李應元(35.89%)と圧倒して再選を果たした。
性格
座右の銘は「治事以敬,待人以誠」(注意深く事に当たり、誠意を以て人に当たる)
蒋経国は馬英九を「欠点のない人」と評した。
法務部時代のあだ名は「コンピューター人間」(まったく欠点のない人)
荒れた政界の中において馬英九は比較的「口が悪くない」タイプ。
馬英九は、1.契約関係にある人、2.協力関係にある人、3.監督関係にある人の3種類の人間からの贈り物は受け取るべきではないとする。
努力家で知られ、自身「頭が良くないと言われるのはかまわないが、努力が足りないとは言わせない」と話す。馬英九担当の記者は冗談で「給料を二倍もらわないと割に合わない」と語る。
政敵、中には国民党の政治家からも「軟脚蝦(軟弱者)」、「乖乖牌(女っぽい/ぶりっ子)」と揶揄される。メディアからは「不沾鍋(くっつかないフライパン、不正に関わらない反面、部下の不祥事などに対しても責任を逃れようとする態度を指す)」と彼の政治的潔癖性を形容。
批判や攻撃にさらされると、いつも「ご指導感謝します」の言葉でかわすやり方をよく使うため、インターネット上の流行語になり、敵対者からは「責任逃れ」との批判がある。一般的にその「理性的で温和な」態度は中間有権者層の期待と支持を集めていると見られる。
しかし、国民党主席に就いた後、陳水扁総統罷免運動が発生した際、06年6月7日「辞職しないならば、いい死に方をしない」「弾は込められた、後は引き金を引くだけ」「あなたに残された時間は多くない」など人が変わったような発言をし、騒動を引き起こした。馬英九は世論の圧力を受け、6月14日謝罪した。
生活
ジョギングと水泳が趣味。
二人の娘(馬唯中と馬元中)はともに米国の大学で学ぶ。馬唯中はアメリカ生まれのため、米国籍を所有。
メディアとの関係
緑陣営(民進党+台聯支持)はよく馬のことを「メディアが作った神」と批判する。
緑陣営メディアは、台湾中部で生まれた「台湾語よりも英語が上手、台湾よりも中国びいき」という対句をもって批判した。
緑陣営メディアは台湾語が台湾本土重視を表し、青陣営(国民党、親民党支持)は英語が国際化を表すと互いに譲らない。
政治的主張
中台関係は現状維持を支持。中国の完全な民主化を持って統一の可能性を探る。
「三民主義の現代化」を以て党の中心思想とし、党の規範と精神を再興し、人心を引きつけ、08年政権奪取を目指す。
中華民国を維持し、台湾独立にも中国の主張する一国両制にも反対。中華民国憲法と「九二共識」を基礎として、対等、相互尊重の前提のもと中台の平和と交流を促進する。「連胡会五項共同願景」を中台関係発展の指針とし、敵対関係の終結、平和協定への署名、共同市場の建設、最終的に統一を目指す考え。
法により党の財産を処理し、処分後の所得は退職した党職員のために優先的に供する。政党法を推進し政党間の公平な競争を維持。
党は選挙のための機構であるとともに、党の理想と使命感を顕現しなければならない。
積極的に青陣営をまとめ、各選挙で勝利を目指す。
国民党青年団を作り、総団長を副主席とする。
地方において勢力拡大と組織的動員に参与する民主行動団を推進。
「土豆(落花生)ボランティアグループ」を組織。
民進党政権に対抗するため、議会路線と街頭路線の相互運用。
つづく
非同額競選 複数の立候補者による選挙
同額競選 単独の立候補者による選挙
反躬自省 振り返って自省する
負笈 本箱を背負う→勉強する
含冤 han2yuan2 冤罪が晴れないままである
會晤 会見
殺雞儆猴 「鶏を殺して猿に警告」見せしめにする
繽紛 ㄅ|ㄣ ㄈㄣ にぎやかな様子
就醫 病院に行って診察を受ける
染煞 SARSに感染する
熄燈 店などを閉鎖する
2008国家発展重点計画
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%B8%E9%8C%AB%E5%A0%83#.E6.8C.91.E6.88.B02008.E5.9C.8B.E5.AE.B6.E7.99.BC.E5.B1.95.E9.87.8D.E9.BB.9E.E8.A8.88.E5.8A.83
(1)E世代人材の育成 :
生活環境の国際化を進め、国民の英語力を高める。
国民オンライン教育、青少年教育の推進。
E世代生涯教育の社会環境の構築。
(2)文化クリエイティブ産業の発展:
芸術家およびクリエイターの人材育成。
クリエイティブ産業環境の構築。
クリエイティブ産業及びクリエイティブメディアの発展。
(3)研究開発の国際基地:
研究開発の国際的人材を招聘、世界の研究開発資源を引き込む。
500億元の研究開発借款を提供。創造的研究開発活動の活性化。
重点産業学院の設置。
産・学・研の協力による人材の育成。
創造的研究開発能力の蓄積。創造的研究開発センターの設立。
創造的研究開発特殊領域の優先的確立。重点産業に関する科学技術の研究を推進。
中核産業の技術の確立。
(4)産業価値の向上:
1000億元投資共同基金、新産業の資金獲得の道を拡大、産業開発の中心技術への援助。
IT、ソーラー発電、通信、機械、紡織、バイオテクノロジーなどを以て産業の付加価値を高める。
伝統産業の付加価値を高め、「両兆双星産業発展計画」(注:「両兆」とは将来の生産高が1兆台湾元を超えることが期待される半導体とディスプレイの両産 業、「双星」とはデジタルとバイオという将来のスター産業)、4大新サービスおよびエコロジー産業などの重点産業の発展を推進する。
国際的販路拡大、ブランドの国際化の奨励
産業発展基地となる産業特区の建設
(5)観光客倍増
(6)デジタル台湾
(1)E世代人材の育成 :
生活環境の国際化を進め、国民の英語力を高める。
国民オンライン教育、青少年教育の推進。
E世代生涯教育の社会環境の構築。
(2)文化クリエイティブ産業の発展:
芸術家およびクリエイターの人材育成。
クリエイティブ産業環境の構築。
クリエイティブ産業及びクリエイティブメディアの発展。
(3)研究開発の国際基地:
研究開発の国際的人材を招聘、世界の研究開発資源を引き込む。
500億元の研究開発借款を提供。創造的研究開発活動の活性化。
重点産業学院の設置。
産・学・研の協力による人材の育成。
創造的研究開発能力の蓄積。創造的研究開発センターの設立。
創造的研究開発特殊領域の優先的確立。重点産業に関する科学技術の研究を推進。
中核産業の技術の確立。
(4)産業価値の向上:
1000億元投資共同基金、新産業の資金獲得の道を拡大、産業開発の中心技術への援助。
IT、ソーラー発電、通信、機械、紡織、バイオテクノロジーなどを以て産業の付加価値を高める。
伝統産業の付加価値を高め、「両兆双星産業発展計画」(注:「両兆」とは将来の生産高が1兆台湾元を超えることが期待される半導体とディスプレイの両産 業、「双星」とはデジタルとバイオという将来のスター産業)、4大新サービスおよびエコロジー産業などの重点産業の発展を推進する。
国際的販路拡大、ブランドの国際化の奨励
産業発展基地となる産業特区の建設
(5)観光客倍増
(6)デジタル台湾
(7)海港と空港の連結、手続きの簡略化、電子化
(8)鉄道、道路網の整備、快速化
(9)水と緑の建設(水資源の有効利用、土地区画整理、資源の再利用、上下水道整備、エコロジー経営建設)
(10)ふるさと新建設星期六, 8月 11, 2007
陳菊高雄市長、地方交付税縮小に不満を表明
地方交付税の大幅縮小(110億台湾元)に対し、青陣営政権の台北県のみならず、民主進歩党(民進党)の陳菊高雄市長までもが「再考の必要がある。これでは立法委員選挙、総統選をサポートすることができない」と不満を表明した。陳水扁総統に対しても、総統の高雄高雄訪問を機に意見を表明した。
台北、高雄の2大都市からの批判を受けて、行政院は、非常に申し訳なく思うが予算は限られており、できるだけ早く補助対策を考えるとした。
台北、高雄の2大都市からの批判を受けて、行政院は、非常に申し訳なく思うが予算は限られており、できるだけ早く補助対策を考えるとした。
星期六, 7月 07, 2007
十大建設
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BB%BA%E8%A8%AD#.E5.8A.A3.E8.A9.95
十大建設とは中華民国が1970年代に台湾で行った一連の国家規模のインフラ建設プロジェクトを指す。
当時政府は道路、港湾、空港、発電所等の公共インフラが依然として不足している状況をみて、また1973年10月に第一次オイルショックが発生し、世界経済が不景気となったこともあり、総体的経済発展のため10項目の大型建設プロジェクトを計画した。
当時の行政院長蔣經國により計画が提出され、建設は1974年より始まり1979年末まで順に完成を迎えた。新台湾ドルにして合わせて3000億元あまりが投入された。
十大建設のうち、六項目が交通運輸関係の建設、三項目が重工業関係の建設、一項目がエネルギー関係の建設となっている。
○十大建設の内容
1.南北高速道路(中山高速公路):
中山高速公路は北は基隆を起点とし南は鳳山までを走り、途中支線が台湾桃園国際空港、高雄国際空台中港、高雄港へとリンクしている。全長373キロメートル。
1971年8月14日着工、1974年7月29日にまず三重から中壢までが開通。1978年10月31日中沙大橋が運用を開始して全線が正式に開通。
2.鉄道の電化:
期間1972年〜1973年。台湾の対外貿易が発達したため、現有の車種、車両数では不十分であることが明白であり、そのため開発が行われた。1979年7月1日完成。
3.北回り鉄道路線:
蘇澳新駅から花蓮駅までを結び花東線と連結。全長88km、台湾東部交通の大動脈となった。
1973年12月、南北両端から同時に着工し、1979年12月全線開通、6年を費やした。
4.中正国際空港:
台北市より西南約40kmの桃園圏大園郷に場所を選定し、1223ヘクタールの敷地面積を持つ新国際空港を建設。1979年2月26日より運用開始。
計画時は「桃園国際空港」と呼ばれていた。2006年9月6日に「台湾桃園国際空港」と改名。
5.台中港:
日本統治時代の新高港計画を引き継ぎ、1983年6月竣工。
6.蘇澳港:
もとは小型港にすぎなかったが拡張される。1983年6月竣工。
7.大型造船所(中国造船高雄造船所):
高雄市小港区の臨海工業区内に位置し、十大建設の中で一最初に完成した重要建設で、当造船所の設立は運輸、貿易、国防及び関連工業の発展等多くの目標を支えることを基本任務とした。
1975年の建設後すぐ、積載重量44万5千トン超級アメリカ籍オイルタンカーの建造を受注した。同時にもともと基隆にあった台湾造船を合併し中国造船基隆造船所とした。中国造船は2007年2月「台湾国際造船」と改名した。
8.大型製鉄所(中国鋼鉄):
外国産鉄鋼への過度な依存を避け、外国為替の負担を軽減し、それまで原料鉄の品質が不揃いなために製品の精度に悪影響を及ぼしていた問題を解決するため、一貫製鉄所の建設を決定。こうして十大建設のひとつに数えられる中国鋼鉄が創設された。
中国鋼鉄の一貫製鉄所は、約480ヘクタールの敷地面積を持ち、高雄臨海第4工業区内の高雄第二港に隣接しており、海外より輸入した原料は直接製鉄所内に接岸して荷揚げでき、運送コストの節約につながった。
9.石油化学工業(中国石油高雄製油所):
高雄県が開発した二カ所の石油化学工業区(コンビナート)-—「仁大(即仁武、大社)石油化学工業区」と「林園石油化学工業区」。
中国石油高雄製油所の建設は台湾のプラスティック、合成ゴム、合成繊維等化学工業の発展において、海外資本への依存を軽減しただけでなく、加工生産品の海外での競争力も高めた。中国石油は2007年2月「台湾中油」と改名。
10.原子力発電所:
第一原子力発電所一、二号機を指す。それぞれ63.6万キロワットの装置容量を持ち、原子力発電所は十大建設に含められ優先的に建設が進められた。二機はそれぞれ1977年と1978年に竣工。延長計画である第二原子力発電所、第三原子力発電所は後続の十二大建設に数えられる。それぞれ1981年、1984年に竣工。
○評価
プラス評価
これら建設計画の成果は良好で、交通・運輸が便利になったばかりか、多くの就業機会を生み出し、工業建設技術の水準も高め、台湾経済の発展を促した。一般的にこの計画はかなり成功し、後に1980年代の経済的飛躍の基礎を作ったと考えられている。例えば、1974年の台湾の経済成長率は1.1%にすぎず、工業成長率は4.5%、通貨膨張率は47.8%にまで達していた。1976年までに各項目の数値は大幅に好転し、経済成長率は空前の13.5%、工業成長率は24.4%、通貨膨脹率10%以内に回復した。
その後中華民国政府は続けて十二大建設、十四大建設、六年国建、新十大建設等類似の計画を推進したが、その成果と影響は十大建設には及ばない。
十大建設のうち,南北高速道路、北回り鉄道路線、中正国際空港(現台湾桃園国際空港)、鉄道の電化、一貫製鉄所、石油化学工業、原子力発電所は代表的な成功例とされる。
マイナス評価
十大建設には失敗したと考えられているものもある。例えば台中港は完成後潮流の問題に悩まされ、経営がようやく軌道に乗ってきたのは最近のことである。また蘇澳港も貨物運送の需要があまりなかったため、たいした成果はなかった。中国造船(台湾国際造船)内部の経営私物化のため、長い間赤字経営が続いてきた。[要情報源]
十大建設は計画経済的傾向が強く、計画経済にはその欠点もある(利益を特定の人間が占める、政府機関の非効率)。十大建設もその弊害は逃れ得ない。(例えば原子力発電所はアメリカの圧力を受けて作られた)。
○逸話
1.
当時の行政院長蔣經國が「十大建設」を発表した際、財政部長李國鼎氏は全く知らされておらず、財務官僚にとっても全く寝耳に水のことであった。このことから「十大建設」は完全に蔣經國一人が決定した政策と言える。その後李氏は蔣經國の一連の公共建設を「好大喜功(出世目当て)」、「浮誇(大げさ)」と形容した。
2.
本来『九大建設』と呼ばれていたが、のちに原子力発電所を加えて十大建設に変更された。このことは政府が発行した郵便切手から知ることができる。最初に発行されたものは『九大建設切手』となっており三度発行され、三つの版がある。原発完成後発行された『原子力発電所記念切手』の構成は特殊で、第三版の『九大建設郵票』とセットになっている。のちに『十大建設記念切手』として全ての切手が再発行されている。
3.
十大建設が成功した後、十大建設は歴代行政院長にとって施政計画の一種のモデルとなった。孫運璿時代には十二大建設、俞國華は十四大建設、郝柏村は六年国建、民進黨が政権を取ってからは游錫堃が新十大建設を立案した。
十大建設とは中華民国が1970年代に台湾で行った一連の国家規模のインフラ建設プロジェクトを指す。
当時政府は道路、港湾、空港、発電所等の公共インフラが依然として不足している状況をみて、また1973年10月に第一次オイルショックが発生し、世界経済が不景気となったこともあり、総体的経済発展のため10項目の大型建設プロジェクトを計画した。
当時の行政院長蔣經國により計画が提出され、建設は1974年より始まり1979年末まで順に完成を迎えた。新台湾ドルにして合わせて3000億元あまりが投入された。
十大建設のうち、六項目が交通運輸関係の建設、三項目が重工業関係の建設、一項目がエネルギー関係の建設となっている。
○十大建設の内容
1.南北高速道路(中山高速公路):
中山高速公路は北は基隆を起点とし南は鳳山までを走り、途中支線が台湾桃園国際空港、高雄国際空台中港、高雄港へとリンクしている。全長373キロメートル。
1971年8月14日着工、1974年7月29日にまず三重から中壢までが開通。1978年10月31日中沙大橋が運用を開始して全線が正式に開通。
2.鉄道の電化:
期間1972年〜1973年。台湾の対外貿易が発達したため、現有の車種、車両数では不十分であることが明白であり、そのため開発が行われた。1979年7月1日完成。
3.北回り鉄道路線:
蘇澳新駅から花蓮駅までを結び花東線と連結。全長88km、台湾東部交通の大動脈となった。
1973年12月、南北両端から同時に着工し、1979年12月全線開通、6年を費やした。
4.中正国際空港:
台北市より西南約40kmの桃園圏大園郷に場所を選定し、1223ヘクタールの敷地面積を持つ新国際空港を建設。1979年2月26日より運用開始。
計画時は「桃園国際空港」と呼ばれていた。2006年9月6日に「台湾桃園国際空港」と改名。
5.台中港:
日本統治時代の新高港計画を引き継ぎ、1983年6月竣工。
6.蘇澳港:
もとは小型港にすぎなかったが拡張される。1983年6月竣工。
7.大型造船所(中国造船高雄造船所):
高雄市小港区の臨海工業区内に位置し、十大建設の中で一最初に完成した重要建設で、当造船所の設立は運輸、貿易、国防及び関連工業の発展等多くの目標を支えることを基本任務とした。
1975年の建設後すぐ、積載重量44万5千トン超級アメリカ籍オイルタンカーの建造を受注した。同時にもともと基隆にあった台湾造船を合併し中国造船基隆造船所とした。中国造船は2007年2月「台湾国際造船」と改名した。
8.大型製鉄所(中国鋼鉄):
外国産鉄鋼への過度な依存を避け、外国為替の負担を軽減し、それまで原料鉄の品質が不揃いなために製品の精度に悪影響を及ぼしていた問題を解決するため、一貫製鉄所の建設を決定。こうして十大建設のひとつに数えられる中国鋼鉄が創設された。
中国鋼鉄の一貫製鉄所は、約480ヘクタールの敷地面積を持ち、高雄臨海第4工業区内の高雄第二港に隣接しており、海外より輸入した原料は直接製鉄所内に接岸して荷揚げでき、運送コストの節約につながった。
9.石油化学工業(中国石油高雄製油所):
高雄県が開発した二カ所の石油化学工業区(コンビナート)-—「仁大(即仁武、大社)石油化学工業区」と「林園石油化学工業区」。
中国石油高雄製油所の建設は台湾のプラスティック、合成ゴム、合成繊維等化学工業の発展において、海外資本への依存を軽減しただけでなく、加工生産品の海外での競争力も高めた。中国石油は2007年2月「台湾中油」と改名。
10.原子力発電所:
第一原子力発電所一、二号機を指す。それぞれ63.6万キロワットの装置容量を持ち、原子力発電所は十大建設に含められ優先的に建設が進められた。二機はそれぞれ1977年と1978年に竣工。延長計画である第二原子力発電所、第三原子力発電所は後続の十二大建設に数えられる。それぞれ1981年、1984年に竣工。
○評価
プラス評価
これら建設計画の成果は良好で、交通・運輸が便利になったばかりか、多くの就業機会を生み出し、工業建設技術の水準も高め、台湾経済の発展を促した。一般的にこの計画はかなり成功し、後に1980年代の経済的飛躍の基礎を作ったと考えられている。例えば、1974年の台湾の経済成長率は1.1%にすぎず、工業成長率は4.5%、通貨膨張率は47.8%にまで達していた。1976年までに各項目の数値は大幅に好転し、経済成長率は空前の13.5%、工業成長率は24.4%、通貨膨脹率10%以内に回復した。
その後中華民国政府は続けて十二大建設、十四大建設、六年国建、新十大建設等類似の計画を推進したが、その成果と影響は十大建設には及ばない。
十大建設のうち,南北高速道路、北回り鉄道路線、中正国際空港(現台湾桃園国際空港)、鉄道の電化、一貫製鉄所、石油化学工業、原子力発電所は代表的な成功例とされる。
マイナス評価
十大建設には失敗したと考えられているものもある。例えば台中港は完成後潮流の問題に悩まされ、経営がようやく軌道に乗ってきたのは最近のことである。また蘇澳港も貨物運送の需要があまりなかったため、たいした成果はなかった。中国造船(台湾国際造船)内部の経営私物化のため、長い間赤字経営が続いてきた。[要情報源]
十大建設は計画経済的傾向が強く、計画経済にはその欠点もある(利益を特定の人間が占める、政府機関の非効率)。十大建設もその弊害は逃れ得ない。(例えば原子力発電所はアメリカの圧力を受けて作られた)。
○逸話
1.
当時の行政院長蔣經國が「十大建設」を発表した際、財政部長李國鼎氏は全く知らされておらず、財務官僚にとっても全く寝耳に水のことであった。このことから「十大建設」は完全に蔣經國一人が決定した政策と言える。その後李氏は蔣經國の一連の公共建設を「好大喜功(出世目当て)」、「浮誇(大げさ)」と形容した。
2.
本来『九大建設』と呼ばれていたが、のちに原子力発電所を加えて十大建設に変更された。このことは政府が発行した郵便切手から知ることができる。最初に発行されたものは『九大建設切手』となっており三度発行され、三つの版がある。原発完成後発行された『原子力発電所記念切手』の構成は特殊で、第三版の『九大建設郵票』とセットになっている。のちに『十大建設記念切手』として全ての切手が再発行されている。
3.
十大建設が成功した後、十大建設は歴代行政院長にとって施政計画の一種のモデルとなった。孫運璿時代には十二大建設、俞國華は十四大建設、郝柏村は六年国建、民進黨が政権を取ってからは游錫堃が新十大建設を立案した。
星期五, 7月 06, 2007
星期二, 7月 03, 2007
蘇建和事件
http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%98%87%E5%BB%BA%E5%92%8C%E6%A1%88&variant=zh-tw#.E6.A1.88.E4.BB.B6.E7.B6.93.E9.81.8E
「蘇建和事件」、または「三死囚事件」と呼ばれる、1990年代に台湾で発生した重大刑事事件。容疑者蘇建和、劉秉郎、莊林勳ら三人は「協同強盜、強姦、殺人」などの罪で死刑判決を受けたが、その後無罪判決を受けている。2007年6月29日台湾高等裁判所は再び判決を覆し死刑を宣告した。;本件は捜査と審理の過程において多くの瑕疵が見られることから、えん罪である可能性が高い。捜査員の一部が、自白の強要に関わったとして検察が調査を行ったが、その後不起訴となっている。本事件は台湾の刑事訴訟法制に大きな影響を及ぼし、台湾の司法と警察制度の改善を促した。
本事件は台湾司法史上もっとも注目を集め、かつ議論となった事件のひとつである。歴代の法務部長はそろって死刑執行命令に同意せず、検察総長が三度非常上告を提起し、死刑判決後再審で無罪となり、再度上告によって死刑判決が出された初めての刑事事件である。また、死刑判決後被告の身柄を拘束しなかった初めての例でもある。
本事件にこれまで出された有罪判決は、証拠能力が不十分で曖昧な物証以外被告の自白が有罪確定の主な根拠となっている、しかし本件自白書にはその論理性に疑問があるため、被告の自白を判決の根拠とすることはできず(自白法則),さらに自白調書の取得過程で強要が指摘されており、たとえ強要を行った取調係官が起訴されなかったとしても、多くの刑事法学者(如蔡墩銘、李茂生など)の報告では、人権団体の支援の中、取調係官、取調べ過程、およびこれまでの有罪判決は強い疑問と批判を受けている。
事件の経過
1991年(民国80年)
3月24日
台北県汐止鎮にて吳銘漢、葉盈蘭夫婦殺害事件発生。検察官崔紀鎮は捜査記録に証拠物件として包丁と包丁に着いた毛髪、血で写し取られた3カ所の指紋および浴室に落ちた髪の毛数本を書き記した。被害者夫婦の息子吳東諺(当時6歲)が父母殺害後の惨状を目撃。吳東諺は進行性筋ジストロフィーを患っており,全身麻痺、筋肉の萎縮があり、現在も起きあがることができない。
8月14日
+ 10時30分
捜査班が王文孝に出頭を求める。
+ 14時30分
検察官崔紀鎮が王文孝の尋問を行い尋問調書を採る。これは検察側が王文孝に対して行った第一回尋問調書だが、この調書は現在まで提出されていない。
+ 16時
現場検証、このときまで王文孝は単独で犯行を行ったと述べていたが、警察は被害者の体に79カ所もの刺し傷があることから単独犯とは考えられず、共犯に関する追求が始まった。また現場検証の録画テープは、警察によると「消去した」として未提出である。
+ 23時30分
警察による王文孝に対する第一回尋問調書によると、王文孝はここで初めて共犯(謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳の四人)がいることを認める。この調書は台湾高等裁判所での審判の際になってようやく司法院の求めに応じて提出された。
8月15日
+ 4時30分
第二回尋問調書によると、王文孝は謝廣惠を共犯から除外し、長腳が事件に関わりがあること、そして王文忠兵役任地を供述。この調書は警察によって第一回尋問調書と改ざんされた。
+ 5時
捜査記録によると蘇建和はこの時間に警察による尋問を受け、犯行を否認したとなっているが、蘇建和は8月15日の昼食後に逮捕されている。この時間記録は警察によって偽造された可能性が高く、公文書偽造の疑いがある。しかし未だ追究はなされていない。
+ 12時30分
王文忠が高雄において逮捕される。警察によって移送途中に蘇建和らの氏名を供述。同じ時間に蘇建和が自宅において逮捕される。
+ 23時
劉秉郎、莊林勳が自宅において逮捕される。汐止分局の警察官は、二人が法律に関する知識が乏しいことに乗じて故意に被告に対し弁護人を任命できる権利があることを通知せず、弁護人選任権を妨害した疑いがもたれている。王文孝まだ軍事検察署に拘置されていた。この時までに王文孝は軍、検察、警察と合わせて48時間、なかでも警察には33時間拘留されており24時間以内に司法院に移送して審問を行うという憲法の規定に違反している。
8月16日
+ 3時10分
警察は「臨検」の名目で捜査状を持たずに莊林勳宅に入り、莊林勳が供述を強要された開山刀を捜索した。開山刀は見つからなかったが、莊林勳の弟莊國勳を脅して同意を得、莊の寝室を破壊。
1992年(民國81年)
1月11日
軍法会議による判決を受け王文孝の死刑が確定し、銃殺刑により死刑執行された。
------------------原文------------------
蘇建和案
蘇建和案,又稱三死囚案,是1990年代發生在台灣,蘇建和、劉秉郎及莊林勳三人先被以「結夥強盜、強姦、殺人」等罪名宣判死刑,三人一度被判無罪,2007年6月29日台灣高等法院又改判死刑的一個重大刑事案件;本案偵辦及審判過程有許多瑕疵之處、可能造成冤獄。部分承辦人員因辦案方法涉及刑求而由檢察官偵查,但後獲不起訴處分。這個案件對於台灣的刑事訴訟法制有很大影響,也促進台灣司法及警察制度的改善。
本案堪稱台灣司法史上最受矚目及最具爭議性的案件之一,歷經多任法務部長均未批准死刑執行令,是首件由檢察總長提起三次非常上訴及死刑判決再審後改判無罪,但經上訴發回又改判死刑的刑事案件,也是首件判處死刑後未收押被告的案件。
本案件歷次的有罪判決,除證據力薄弱、模糊的物證外,主要是以被告自白作為認定犯罪的主要依據,但本案件的自白書邏輯性遭到質疑,而被告自白並不能作為主要證據(自白法則),再者被告自白取得過程又涉及刑求指控,即使涉及刑求的承辦人員未獲起訴追究,但在許多刑事學者(如蔡墩銘、李茂生等)的報告、人權團體的聲援之中,辦案人員、辦案過程以及歷次有罪判決均遭到嚴重的質疑與批評。
案件經過
[編輯] 案發
1991年(民國80年)
o 3月24日,台北縣汐止鎮發生吳銘漢、葉盈蘭夫婦命案。檢察官崔紀鎮勘驗筆錄上記載證物為廚房菜刀及菜刀上的毛髮,以及血指紋三枚、浴室中毛髮數根。受害夫婦的兒子吳東諺(當時6歲)目擊父母遇害後的慘狀。吳東諺本身罹患杜顯氏進行性肌肉萎縮症,全身癱瘓、萎縮,迄今臥病在床。
o 8月14日
+ 10時30分,專案小組借提王文孝。
+ 14時30分,檢察官崔紀鎮訊問王文孝並作成筆錄;此為檢方對王文孝所做之第一份筆錄,但此份筆錄一直未提出。
+ 16時,犯罪現場模擬,王文孝仍稱僅一人犯案,但警方不信被害人身中79刀僅為一人所為,於是開始訊問共犯問題。而現場模擬之錄影帶警方最後以「洗掉」為由一直未提出。
+ 23時30分,警方對王文孝作第一次警訊筆錄,王文孝首度承認有其他共犯:謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳四人;此筆錄至台灣高等法院審判階段,警方纔應法院要求提出。
o 8月15日
+ 4時30分,第二次警訊筆錄中,王文孝排除謝廣惠,但供出長腳涉案及王文忠服役地址。此筆錄被警方改為第一次筆錄。
+ 5時,紀錄中顯示蘇建和於此時接受警方訊問,未承認犯行,但蘇建和是於8月15日中午飯後才被捕,此記錄時間可能為警方偽造,有偽造公文書之罪嫌。但並未被追究。
+ 12時30分,王文忠於高雄被捕,被警方押送北上途中供出蘇建和等人姓名。同一時間,蘇建和於家中被捕。
+ 23時,劉秉郎、莊林勳於家中被捕。汐止分局警員趁其二人法律知識貧乏,涉嫌故意不告知可選任辯護人之權利,涉嫌妨害被告請求律師協助。王文孝還押軍事檢察署。到此時為止,王文孝在軍、檢、警方手中共達48小時,其中在警方控制下達33小時,違反24小時內移送法院審問之憲法規定。
o 8月16日
+ 3時10分,警方以「臨檢」名義,未具搜索票非法進入莊林勳住宅,搜索莊林勳被刑求所供出的開山刀。雖未尋獲開山刀,但脅迫莊林勳之弟莊國勳同意,破壞莊的臥房。
1992年(民國81年)
o 1月11日,王文孝受軍法判決死刑定讞,執行槍決。
�
「蘇建和事件」、または「三死囚事件」と呼ばれる、1990年代に台湾で発生した重大刑事事件。容疑者蘇建和、劉秉郎、莊林勳ら三人は「協同強盜、強姦、殺人」などの罪で死刑判決を受けたが、その後無罪判決を受けている。2007年6月29日台湾高等裁判所は再び判決を覆し死刑を宣告した。;本件は捜査と審理の過程において多くの瑕疵が見られることから、えん罪である可能性が高い。捜査員の一部が、自白の強要に関わったとして検察が調査を行ったが、その後不起訴となっている。本事件は台湾の刑事訴訟法制に大きな影響を及ぼし、台湾の司法と警察制度の改善を促した。
本事件は台湾司法史上もっとも注目を集め、かつ議論となった事件のひとつである。歴代の法務部長はそろって死刑執行命令に同意せず、検察総長が三度非常上告を提起し、死刑判決後再審で無罪となり、再度上告によって死刑判決が出された初めての刑事事件である。また、死刑判決後被告の身柄を拘束しなかった初めての例でもある。
本事件にこれまで出された有罪判決は、証拠能力が不十分で曖昧な物証以外被告の自白が有罪確定の主な根拠となっている、しかし本件自白書にはその論理性に疑問があるため、被告の自白を判決の根拠とすることはできず(自白法則),さらに自白調書の取得過程で強要が指摘されており、たとえ強要を行った取調係官が起訴されなかったとしても、多くの刑事法学者(如蔡墩銘、李茂生など)の報告では、人権団体の支援の中、取調係官、取調べ過程、およびこれまでの有罪判決は強い疑問と批判を受けている。
事件の経過
1991年(民国80年)
3月24日
台北県汐止鎮にて吳銘漢、葉盈蘭夫婦殺害事件発生。検察官崔紀鎮は捜査記録に証拠物件として包丁と包丁に着いた毛髪、血で写し取られた3カ所の指紋および浴室に落ちた髪の毛数本を書き記した。被害者夫婦の息子吳東諺(当時6歲)が父母殺害後の惨状を目撃。吳東諺は進行性筋ジストロフィーを患っており,全身麻痺、筋肉の萎縮があり、現在も起きあがることができない。
8月14日
+ 10時30分
捜査班が王文孝に出頭を求める。
+ 14時30分
検察官崔紀鎮が王文孝の尋問を行い尋問調書を採る。これは検察側が王文孝に対して行った第一回尋問調書だが、この調書は現在まで提出されていない。
+ 16時
現場検証、このときまで王文孝は単独で犯行を行ったと述べていたが、警察は被害者の体に79カ所もの刺し傷があることから単独犯とは考えられず、共犯に関する追求が始まった。また現場検証の録画テープは、警察によると「消去した」として未提出である。
+ 23時30分
警察による王文孝に対する第一回尋問調書によると、王文孝はここで初めて共犯(謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳の四人)がいることを認める。この調書は台湾高等裁判所での審判の際になってようやく司法院の求めに応じて提出された。
8月15日
+ 4時30分
第二回尋問調書によると、王文孝は謝廣惠を共犯から除外し、長腳が事件に関わりがあること、そして王文忠兵役任地を供述。この調書は警察によって第一回尋問調書と改ざんされた。
+ 5時
捜査記録によると蘇建和はこの時間に警察による尋問を受け、犯行を否認したとなっているが、蘇建和は8月15日の昼食後に逮捕されている。この時間記録は警察によって偽造された可能性が高く、公文書偽造の疑いがある。しかし未だ追究はなされていない。
+ 12時30分
王文忠が高雄において逮捕される。警察によって移送途中に蘇建和らの氏名を供述。同じ時間に蘇建和が自宅において逮捕される。
+ 23時
劉秉郎、莊林勳が自宅において逮捕される。汐止分局の警察官は、二人が法律に関する知識が乏しいことに乗じて故意に被告に対し弁護人を任命できる権利があることを通知せず、弁護人選任権を妨害した疑いがもたれている。王文孝まだ軍事検察署に拘置されていた。この時までに王文孝は軍、検察、警察と合わせて48時間、なかでも警察には33時間拘留されており24時間以内に司法院に移送して審問を行うという憲法の規定に違反している。
8月16日
+ 3時10分
警察は「臨検」の名目で捜査状を持たずに莊林勳宅に入り、莊林勳が供述を強要された開山刀を捜索した。開山刀は見つからなかったが、莊林勳の弟莊國勳を脅して同意を得、莊の寝室を破壊。
1992年(民國81年)
1月11日
軍法会議による判決を受け王文孝の死刑が確定し、銃殺刑により死刑執行された。
------------------原文------------------
蘇建和案
蘇建和案,又稱三死囚案,是1990年代發生在台灣,蘇建和、劉秉郎及莊林勳三人先被以「結夥強盜、強姦、殺人」等罪名宣判死刑,三人一度被判無罪,2007年6月29日台灣高等法院又改判死刑的一個重大刑事案件;本案偵辦及審判過程有許多瑕疵之處、可能造成冤獄。部分承辦人員因辦案方法涉及刑求而由檢察官偵查,但後獲不起訴處分。這個案件對於台灣的刑事訴訟法制有很大影響,也促進台灣司法及警察制度的改善。
本案堪稱台灣司法史上最受矚目及最具爭議性的案件之一,歷經多任法務部長均未批准死刑執行令,是首件由檢察總長提起三次非常上訴及死刑判決再審後改判無罪,但經上訴發回又改判死刑的刑事案件,也是首件判處死刑後未收押被告的案件。
本案件歷次的有罪判決,除證據力薄弱、模糊的物證外,主要是以被告自白作為認定犯罪的主要依據,但本案件的自白書邏輯性遭到質疑,而被告自白並不能作為主要證據(自白法則),再者被告自白取得過程又涉及刑求指控,即使涉及刑求的承辦人員未獲起訴追究,但在許多刑事學者(如蔡墩銘、李茂生等)的報告、人權團體的聲援之中,辦案人員、辦案過程以及歷次有罪判決均遭到嚴重的質疑與批評。
案件經過
[編輯] 案發
1991年(民國80年)
o 3月24日,台北縣汐止鎮發生吳銘漢、葉盈蘭夫婦命案。檢察官崔紀鎮勘驗筆錄上記載證物為廚房菜刀及菜刀上的毛髮,以及血指紋三枚、浴室中毛髮數根。受害夫婦的兒子吳東諺(當時6歲)目擊父母遇害後的慘狀。吳東諺本身罹患杜顯氏進行性肌肉萎縮症,全身癱瘓、萎縮,迄今臥病在床。
o 8月14日
+ 10時30分,專案小組借提王文孝。
+ 14時30分,檢察官崔紀鎮訊問王文孝並作成筆錄;此為檢方對王文孝所做之第一份筆錄,但此份筆錄一直未提出。
+ 16時,犯罪現場模擬,王文孝仍稱僅一人犯案,但警方不信被害人身中79刀僅為一人所為,於是開始訊問共犯問題。而現場模擬之錄影帶警方最後以「洗掉」為由一直未提出。
+ 23時30分,警方對王文孝作第一次警訊筆錄,王文孝首度承認有其他共犯:謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳四人;此筆錄至台灣高等法院審判階段,警方纔應法院要求提出。
o 8月15日
+ 4時30分,第二次警訊筆錄中,王文孝排除謝廣惠,但供出長腳涉案及王文忠服役地址。此筆錄被警方改為第一次筆錄。
+ 5時,紀錄中顯示蘇建和於此時接受警方訊問,未承認犯行,但蘇建和是於8月15日中午飯後才被捕,此記錄時間可能為警方偽造,有偽造公文書之罪嫌。但並未被追究。
+ 12時30分,王文忠於高雄被捕,被警方押送北上途中供出蘇建和等人姓名。同一時間,蘇建和於家中被捕。
+ 23時,劉秉郎、莊林勳於家中被捕。汐止分局警員趁其二人法律知識貧乏,涉嫌故意不告知可選任辯護人之權利,涉嫌妨害被告請求律師協助。王文孝還押軍事檢察署。到此時為止,王文孝在軍、檢、警方手中共達48小時,其中在警方控制下達33小時,違反24小時內移送法院審問之憲法規定。
o 8月16日
+ 3時10分,警方以「臨檢」名義,未具搜索票非法進入莊林勳住宅,搜索莊林勳被刑求所供出的開山刀。雖未尋獲開山刀,但脅迫莊林勳之弟莊國勳同意,破壞莊的臥房。
1992年(民國81年)
o 1月11日,王文孝受軍法判決死刑定讞,執行槍決。
�
星期二, 6月 19, 2007
6月15日
6月15日司法院大法官会議は第627号解釈文を結論付け、総統は国家機密特権と証言拒否権を有し、ならびに憲法第52条の規定に則り、刑事免責権を有することを認定した。
6月15日,2006年高雄市長選挙訴訟において、高雄地方裁判所は陳菊氏当選無効の一審判決を言い渡し、選挙無効の訴えを退けた。陳菊氏陣営はあくまで控訴すると発表した。
------------------原文------------------
6月15日,司法院大法官會議做出第627號解釋文,認定總統享有國家機密特權及拒絕證言權,並強調總統依憲法第52條規定享有刑事豁免權,不得拋棄。
6月15日,2006年高雄市長選舉選舉訴訟,高雄地方法院一審宣判陳菊當選無效,選舉無效之訴駁回,陳菊陣營表示上訴到底。
6月15日,2006年高雄市長選挙訴訟において、高雄地方裁判所は陳菊氏当選無効の一審判決を言い渡し、選挙無効の訴えを退けた。陳菊氏陣営はあくまで控訴すると発表した。
------------------原文------------------
6月15日,司法院大法官會議做出第627號解釋文,認定總統享有國家機密特權及拒絕證言權,並強調總統依憲法第52條規定享有刑事豁免權,不得拋棄。
6月15日,2006年高雄市長選舉選舉訴訟,高雄地方法院一審宣判陳菊當選無效,選舉無效之訴駁回,陳菊陣營表示上訴到底。
星期二, 6月 12, 2007
osx+epson stylus cx-3700
http://forums.macosxhints.com/showthread.php?t=63371
Need to install Gimp-Print drivers. Then connect the CX3700 via USB. In the printer set up utility, highlight CX3700 and in the pull down menu choose Epson C66 driver.
Need to install Gimp-Print drivers. Then connect the CX3700 via USB. In the printer set up utility, highlight CX3700 and in the pull down menu choose Epson C66 driver.
星期二, 5月 29, 2007
台鉄連続破壊事件に判決
2007年5月23日 臺灣新動態
5月23日、一時世間を騒がせた台湾鉄道南回り線連続破壊事件は、屏東地方裁判所一審において、共謀殺人罪により李泰安に無期懲役、終身公権剥奪の判決が下された。
------------------原文------------------
5月23日,喧騰一時的台鐵南迴線連續破壞事件,屏東地方法院一審依共同殺人罪判處李泰安無期徒刑、褫奪公權終身。
喧騰 xuān téng 吵鬧沸騰
褫奪 chǐ duó
=剝奪 bō duó
5月23日、一時世間を騒がせた台湾鉄道南回り線連続破壊事件は、屏東地方裁判所一審において、共謀殺人罪により李泰安に無期懲役、終身公権剥奪の判決が下された。
------------------原文------------------
5月23日,喧騰一時的台鐵南迴線連續破壞事件,屏東地方法院一審依共同殺人罪判處李泰安無期徒刑、褫奪公權終身。
喧騰 xuān téng 吵鬧沸騰
褫奪 chǐ duó
=剝奪 bō duó
台北県議員吳善九が銃撃され死亡
2007年5月23日 臺灣新動態
5月23日、台北県議員吳善九氏は新店の事務所において銃撃され、病院へ送られたが死亡した。
------------------原文------------------
5月23日,台北縣議員吳善九在新店市的服務處遭槍擊,送醫不治。
遭 zāo 遭う
槍擊 qiāng jí 銃撃
5月23日、台北県議員吳善九氏は新店の事務所において銃撃され、病院へ送られたが死亡した。
------------------原文------------------
5月23日,台北縣議員吳善九在新店市的服務處遭槍擊,送醫不治。
遭 zāo 遭う
槍擊 qiāng jí 銃撃
台湾史上最大の嬰児売買事件に判決
2007年5月21日 臺灣新動態
王精明夫妻による台湾史上最大規模の嬰児売買事件は、士林地方裁判所一審で人身売買の罪により、王精明夫妻に対しそれぞれ懲役12年、併せて罰金150万元の判決を言い渡した。その他、仲介を行った医務員、嬰児を買った夫婦86名は全て刑を免れるか、あるいは減刑となった。
------------------原文------------------
5月21日,台灣史上規模最大的王精明夫婦販嬰案,士林地方法院一審依買賣人口罪判處王精明夫婦各有期徒刑12年、併科罰金新台幣150萬元,其餘86名參與仲介的醫護人員及買嬰夫妻則均獲判免刑或緩刑。
判處 pàn chǔ 判決を下す
買賣人口 人身売買
徒刑 tú xíng 懲役
科罰金 kē fá jīn 罰金を科す
參與 関与する
仲介 zhòng jiè 仲介する
王精明夫妻による台湾史上最大規模の嬰児売買事件は、士林地方裁判所一審で人身売買の罪により、王精明夫妻に対しそれぞれ懲役12年、併せて罰金150万元の判決を言い渡した。その他、仲介を行った医務員、嬰児を買った夫婦86名は全て刑を免れるか、あるいは減刑となった。
------------------原文------------------
5月21日,台灣史上規模最大的王精明夫婦販嬰案,士林地方法院一審依買賣人口罪判處王精明夫婦各有期徒刑12年、併科罰金新台幣150萬元,其餘86名參與仲介的醫護人員及買嬰夫妻則均獲判免刑或緩刑。
判處 pàn chǔ 判決を下す
買賣人口 人身売買
徒刑 tú xíng 懲役
科罰金 kē fá jīn 罰金を科す
參與 関与する
仲介 zhòng jiè 仲介する
訂閱:
文章 (Atom)