星期二, 7月 03, 2007

蘇建和事件

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 「蘇建和事件」、または「三死囚事件」と呼ばれる、1990年代に台湾で発生した重大刑事事件。容疑者蘇建和、劉秉郎、莊林勳ら三人は「協同強盜、強姦、殺人」などの罪で死刑判決を受けたが、その後無罪判決を受けている。2007年6月29日台湾高等裁判所は再び判決を覆し死刑を宣告した。;本件は捜査と審理の過程において多くの瑕疵が見られることから、えん罪である可能性が高い。捜査員の一部が、自白の強要に関わったとして検察が調査を行ったが、その後不起訴となっている。本事件は台湾の刑事訴訟法制に大きな影響を及ぼし、台湾の司法と警察制度の改善を促した。

 本事件は台湾司法史上もっとも注目を集め、かつ議論となった事件のひとつである。歴代の法務部長はそろって死刑執行命令に同意せず、検察総長が三度非常上告を提起し、死刑判決後再審で無罪となり、再度上告によって死刑判決が出された初めての刑事事件である。また、死刑判決後被告の身柄を拘束しなかった初めての例でもある。

 本事件にこれまで出された有罪判決は、証拠能力が不十分で曖昧な物証以外被告の自白が有罪確定の主な根拠となっている、しかし本件自白書にはその論理性に疑問があるため、被告の自白を判決の根拠とすることはできず(自白法則),さらに自白調書の取得過程で強要が指摘されており、たとえ強要を行った取調係官が起訴されなかったとしても、多くの刑事法学者(如蔡墩銘、李茂生など)の報告では、人権団体の支援の中、取調係官、取調べ過程、およびこれまでの有罪判決は強い疑問と批判を受けている。

事件の経過

1991年(民国80年)
3月24日
 台北県汐止鎮にて吳銘漢、葉盈蘭夫婦殺害事件発生。検察官崔紀鎮は捜査記録に証拠物件として包丁と包丁に着いた毛髪、血で写し取られた3カ所の指紋および浴室に落ちた髪の毛数本を書き記した。被害者夫婦の息子吳東諺(当時6歲)が父母殺害後の惨状を目撃。吳東諺は進行性筋ジストロフィーを患っており,全身麻痺、筋肉の萎縮があり、現在も起きあがることができない。

8月14日
+ 10時30分
 捜査班が王文孝に出頭を求める。
+ 14時30分
 検察官崔紀鎮が王文孝の尋問を行い尋問調書を採る。これは検察側が王文孝に対して行った第一回尋問調書だが、この調書は現在まで提出されていない。
+ 16時
 現場検証、このときまで王文孝は単独で犯行を行ったと述べていたが、警察は被害者の体に79カ所もの刺し傷があることから単独犯とは考えられず、共犯に関する追求が始まった。また現場検証の録画テープは、警察によると「消去した」として未提出である。
+ 23時30分
 警察による王文孝に対する第一回尋問調書によると、王文孝はここで初めて共犯(謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳の四人)がいることを認める。この調書は台湾高等裁判所での審判の際になってようやく司法院の求めに応じて提出された。

8月15日
+ 4時30分
 第二回尋問調書によると、王文孝は謝廣惠を共犯から除外し、長腳が事件に関わりがあること、そして王文忠兵役任地を供述。この調書は警察によって第一回尋問調書と改ざんされた。

+ 5時
 捜査記録によると蘇建和はこの時間に警察による尋問を受け、犯行を否認したとなっているが、蘇建和は8月15日の昼食後に逮捕されている。この時間記録は警察によって偽造された可能性が高く、公文書偽造の疑いがある。しかし未だ追究はなされていない。
+ 12時30分
 王文忠が高雄において逮捕される。警察によって移送途中に蘇建和らの氏名を供述。同じ時間に蘇建和が自宅において逮捕される。
+ 23時
 劉秉郎、莊林勳が自宅において逮捕される。汐止分局の警察官は、二人が法律に関する知識が乏しいことに乗じて故意に被告に対し弁護人を任命できる権利があることを通知せず、弁護人選任権を妨害した疑いがもたれている。王文孝まだ軍事検察署に拘置されていた。この時までに王文孝は軍、検察、警察と合わせて48時間、なかでも警察には33時間拘留されており24時間以内に司法院に移送して審問を行うという憲法の規定に違反している。

8月16日
+ 3時10分
 警察は「臨検」の名目で捜査状を持たずに莊林勳宅に入り、莊林勳が供述を強要された開山刀を捜索した。開山刀は見つからなかったが、莊林勳の弟莊國勳を脅して同意を得、莊の寝室を破壊。

1992年(民國81年)
1月11日
 軍法会議による判決を受け王文孝の死刑が確定し、銃殺刑により死刑執行された。

------------------原文------------------

蘇建和案

蘇建和案,又稱三死囚案,是1990年代發生在台灣,蘇建和、劉秉郎及莊林勳三人先被以「結夥強盜、強姦、殺人」等罪名宣判死刑,三人一度被判無罪,2007年6月29日台灣高等法院又改判死刑的一個重大刑事案件;本案偵辦及審判過程有許多瑕疵之處、可能造成冤獄。部分承辦人員因辦案方法涉及刑求而由檢察官偵查,但後獲不起訴處分。這個案件對於台灣的刑事訴訟法制有很大影響,也促進台灣司法及警察制度的改善。

本案堪稱台灣司法史上最受矚目及最具爭議性的案件之一,歷經多任法務部長均未批准死刑執行令,是首件由檢察總長提起三次非常上訴及死刑判決再審後改判無罪,但經上訴發回又改判死刑的刑事案件,也是首件判處死刑後未收押被告的案件。

本案件歷次的有罪判決,除證據力薄弱、模糊的物證外,主要是以被告自白作為認定犯罪的主要依據,但本案件的自白書邏輯性遭到質疑,而被告自白並不能作為主要證據(自白法則),再者被告自白取得過程又涉及刑求指控,即使涉及刑求的承辦人員未獲起訴追究,但在許多刑事學者(如蔡墩銘、李茂生等)的報告、人權團體的聲援之中,辦案人員、辦案過程以及歷次有罪判決均遭到嚴重的質疑與批評。

案件經過

[編輯] 案發


1991年(民國80年)

o 3月24日,台北縣汐止鎮發生吳銘漢、葉盈蘭夫婦命案。檢察官崔紀鎮勘驗筆錄上記載證物為廚房菜刀及菜刀上的毛髮,以及血指紋三枚、浴室中毛髮數根。受害夫婦的兒子吳東諺(當時6歲)目擊父母遇害後的慘狀。吳東諺本身罹患杜顯氏進行性肌肉萎縮症,全身癱瘓、萎縮,迄今臥病在床。

o 8月14日
+ 10時30分,專案小組借提王文孝。
+ 14時30分,檢察官崔紀鎮訊問王文孝並作成筆錄;此為檢方對王文孝所做之第一份筆錄,但此份筆錄一直未提出。
+ 16時,犯罪現場模擬,王文孝仍稱僅一人犯案,但警方不信被害人身中79刀僅為一人所為,於是開始訊問共犯問題。而現場模擬之錄影帶警方最後以「洗掉」為由一直未提出。
+ 23時30分,警方對王文孝作第一次警訊筆錄,王文孝首度承認有其他共犯:謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳四人;此筆錄至台灣高等法院審判階段,警方纔應法院要求提出。

o 8月15日
+ 4時30分,第二次警訊筆錄中,王文孝排除謝廣惠,但供出長腳涉案及王文忠服役地址。此筆錄被警方改為第一次筆錄。
+ 5時,紀錄中顯示蘇建和於此時接受警方訊問,未承認犯行,但蘇建和是於8月15日中午飯後才被捕,此記錄時間可能為警方偽造,有偽造公文書之罪嫌。但並未被追究。
+ 12時30分,王文忠於高雄被捕,被警方押送北上途中供出蘇建和等人姓名。同一時間,蘇建和於家中被捕。
+ 23時,劉秉郎、莊林勳於家中被捕。汐止分局警員趁其二人法律知識貧乏,涉嫌故意不告知可選任辯護人之權利,涉嫌妨害被告請求律師協助。王文孝還押軍事檢察署。到此時為止,王文孝在軍、檢、警方手中共達48小時,其中在警方控制下達33小時,違反24小時內移送法院審問之憲法規定。


o 8月16日
+ 3時10分,警方以「臨檢」名義,未具搜索票非法進入莊林勳住宅,搜索莊林勳被刑求所供出的開山刀。雖未尋獲開山刀,但脅迫莊林勳之弟莊國勳同意,破壞莊的臥房。


1992年(民國81年)
o 1月11日,王文孝受軍法判決死刑定讞,執行槍決。

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