星期六, 7月 07, 2007

十大建設

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A4%A7%E5%BB%BA%E8%A8%AD#.E5.8A.A3.E8.A9.95

 十大建設とは中華民国が1970年代に台湾で行った一連の国家規模のインフラ建設プロジェクトを指す。
 当時政府は道路、港湾、空港、発電所等の公共インフラが依然として不足している状況をみて、また1973年10月に第一次オイルショックが発生し、世界経済が不景気となったこともあり、総体的経済発展のため10項目の大型建設プロジェクトを計画した。
 当時の行政院長蔣經國により計画が提出され、建設は1974年より始まり1979年末まで順に完成を迎えた。新台湾ドルにして合わせて3000億元あまりが投入された。
 十大建設のうち、六項目が交通運輸関係の建設、三項目が重工業関係の建設、一項目がエネルギー関係の建設となっている。

○十大建設の内容

1.南北高速道路(中山高速公路):
 中山高速公路は北は基隆を起点とし南は鳳山までを走り、途中支線が台湾桃園国際空港、高雄国際空台中港、高雄港へとリンクしている。全長373キロメートル。
 1971年8月14日着工、1974年7月29日にまず三重から中壢までが開通。1978年10月31日中沙大橋が運用を開始して全線が正式に開通。

2.鉄道の電化:
 期間1972年〜1973年。台湾の対外貿易が発達したため、現有の車種、車両数では不十分であることが明白であり、そのため開発が行われた。1979年7月1日完成。

3.北回り鉄道路線:
 蘇澳新駅から花蓮駅までを結び花東線と連結。全長88km、台湾東部交通の大動脈となった。
 1973年12月、南北両端から同時に着工し、1979年12月全線開通、6年を費やした。

4.中正国際空港:
 台北市より西南約40kmの桃園圏大園郷に場所を選定し、1223ヘクタールの敷地面積を持つ新国際空港を建設。1979年2月26日より運用開始。
 計画時は「桃園国際空港」と呼ばれていた。2006年9月6日に「台湾桃園国際空港」と改名。

5.台中港:
 日本統治時代の新高港計画を引き継ぎ、1983年6月竣工。

6.蘇澳港:
 もとは小型港にすぎなかったが拡張される。1983年6月竣工。

7.大型造船所(中国造船高雄造船所):
 高雄市小港区の臨海工業区内に位置し、十大建設の中で一最初に完成した重要建設で、当造船所の設立は運輸、貿易、国防及び関連工業の発展等多くの目標を支えることを基本任務とした。
 1975年の建設後すぐ、積載重量44万5千トン超級アメリカ籍オイルタンカーの建造を受注した。同時にもともと基隆にあった台湾造船を合併し中国造船基隆造船所とした。中国造船は2007年2月「台湾国際造船」と改名した。

8.大型製鉄所(中国鋼鉄):
 外国産鉄鋼への過度な依存を避け、外国為替の負担を軽減し、それまで原料鉄の品質が不揃いなために製品の精度に悪影響を及ぼしていた問題を解決するため、一貫製鉄所の建設を決定。こうして十大建設のひとつに数えられる中国鋼鉄が創設された。
 中国鋼鉄の一貫製鉄所は、約480ヘクタールの敷地面積を持ち、高雄臨海第4工業区内の高雄第二港に隣接しており、海外より輸入した原料は直接製鉄所内に接岸して荷揚げでき、運送コストの節約につながった。

9.石油化学工業(中国石油高雄製油所):
 高雄県が開発した二カ所の石油化学工業区(コンビナート)-—「仁大(即仁武、大社)石油化学工業区」と「林園石油化学工業区」。
 中国石油高雄製油所の建設は台湾のプラスティック、合成ゴム、合成繊維等化学工業の発展において、海外資本への依存を軽減しただけでなく、加工生産品の海外での競争力も高めた。中国石油は2007年2月「台湾中油」と改名。

10.原子力発電所:
 第一原子力発電所一、二号機を指す。それぞれ63.6万キロワットの装置容量を持ち、原子力発電所は十大建設に含められ優先的に建設が進められた。二機はそれぞれ1977年と1978年に竣工。延長計画である第二原子力発電所、第三原子力発電所は後続の十二大建設に数えられる。それぞれ1981年、1984年に竣工。

評価

プラス評価

これら建設計画の成果は良好で、交通・運輸が便利になったばかりか、多くの就業機会を生み出し、工業建設技術の水準も高め、台湾経済の発展を促した。一般的にこの計画はかなり成功し、後に1980年代の経済的飛躍の基礎を作ったと考えられている。例えば、1974年の台湾の経済成長率は1.1%にすぎず、工業成長率は4.5%、通貨膨張率は47.8%にまで達していた。1976年までに各項目の数値は大幅に好転し、経済成長率は空前の13.5%、工業成長率は24.4%、通貨膨脹率10%以内に回復した。

その後中華民国政府は続けて十二大建設、十四大建設、六年国建、新十大建設等類似の計画を推進したが、その成果と影響は十大建設には及ばない。

十大建設のうち,南北高速道路、北回り鉄道路線、中正国際空港(現台湾桃園国際空港)、鉄道の電化、一貫製鉄所、石油化学工業、原子力発電所は代表的な成功例とされる。

マイナス評価

十大建設には失敗したと考えられているものもある。例えば台中港は完成後潮流の問題に悩まされ、経営がようやく軌道に乗ってきたのは最近のことである。また蘇澳港も貨物運送の需要があまりなかったため、たいした成果はなかった。中国造船(台湾国際造船)内部の経営私物化のため、長い間赤字経営が続いてきた。[要情報源]

十大建設は計画経済的傾向が強く、計画経済にはその欠点もある(利益を特定の人間が占める、政府機関の非効率)。十大建設もその弊害は逃れ得ない。(例えば原子力発電所はアメリカの圧力を受けて作られた)。

逸話

1.
 当時の行政院長蔣經國が「十大建設」を発表した際、財政部長李國鼎氏は全く知らされておらず、財務官僚にとっても全く寝耳に水のことであった。このことから「十大建設」は完全に蔣經國一人が決定した政策と言える。その後李氏は蔣經國の一連の公共建設を「好大喜功(出世目当て)」、「浮誇(大げさ)」と形容した。

2.
 本来『九大建設』と呼ばれていたが、のちに原子力発電所を加えて十大建設に変更された。このことは政府が発行した郵便切手から知ることができる。最初に発行されたものは『九大建設切手』となっており三度発行され、三つの版がある。原発完成後発行された『原子力発電所記念切手』の構成は特殊で、第三版の『九大建設郵票』とセットになっている。のちに『十大建設記念切手』として全ての切手が再発行されている。

3.
 十大建設が成功した後、十大建設は歴代行政院長にとって施政計画の一種のモデルとなった。孫運璿時代には十二大建設、俞國華は十四大建設、郝柏村は六年国建、民進黨が政権を取ってからは游錫堃が新十大建設を立案した。

星期五, 7月 06, 2007

7月4日

 行政院はNCC(国家通訊傳播委員會)が審査、許可した中廣(中國廣播公司)の株式移転を取り消し、責任者解任の行政処分を行い、ならびに一部委員を書類送検すると発表した。NCC側は憲法解釈を求めると表明。

------------------原文------------------

行政院宣佈撤銷NCC核准中廣股權移轉及變更負責人的行政處分,並將部分委員函送檢方偵辦;NCC則表示將提出釋憲。

星期二, 7月 03, 2007

蘇建和事件

http://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%98%87%E5%BB%BA%E5%92%8C%E6%A1%88&variant=zh-tw#.E6.A1.88.E4.BB.B6.E7.B6.93.E9.81.8E

 「蘇建和事件」、または「三死囚事件」と呼ばれる、1990年代に台湾で発生した重大刑事事件。容疑者蘇建和、劉秉郎、莊林勳ら三人は「協同強盜、強姦、殺人」などの罪で死刑判決を受けたが、その後無罪判決を受けている。2007年6月29日台湾高等裁判所は再び判決を覆し死刑を宣告した。;本件は捜査と審理の過程において多くの瑕疵が見られることから、えん罪である可能性が高い。捜査員の一部が、自白の強要に関わったとして検察が調査を行ったが、その後不起訴となっている。本事件は台湾の刑事訴訟法制に大きな影響を及ぼし、台湾の司法と警察制度の改善を促した。

 本事件は台湾司法史上もっとも注目を集め、かつ議論となった事件のひとつである。歴代の法務部長はそろって死刑執行命令に同意せず、検察総長が三度非常上告を提起し、死刑判決後再審で無罪となり、再度上告によって死刑判決が出された初めての刑事事件である。また、死刑判決後被告の身柄を拘束しなかった初めての例でもある。

 本事件にこれまで出された有罪判決は、証拠能力が不十分で曖昧な物証以外被告の自白が有罪確定の主な根拠となっている、しかし本件自白書にはその論理性に疑問があるため、被告の自白を判決の根拠とすることはできず(自白法則),さらに自白調書の取得過程で強要が指摘されており、たとえ強要を行った取調係官が起訴されなかったとしても、多くの刑事法学者(如蔡墩銘、李茂生など)の報告では、人権団体の支援の中、取調係官、取調べ過程、およびこれまでの有罪判決は強い疑問と批判を受けている。

事件の経過

1991年(民国80年)
3月24日
 台北県汐止鎮にて吳銘漢、葉盈蘭夫婦殺害事件発生。検察官崔紀鎮は捜査記録に証拠物件として包丁と包丁に着いた毛髪、血で写し取られた3カ所の指紋および浴室に落ちた髪の毛数本を書き記した。被害者夫婦の息子吳東諺(当時6歲)が父母殺害後の惨状を目撃。吳東諺は進行性筋ジストロフィーを患っており,全身麻痺、筋肉の萎縮があり、現在も起きあがることができない。

8月14日
+ 10時30分
 捜査班が王文孝に出頭を求める。
+ 14時30分
 検察官崔紀鎮が王文孝の尋問を行い尋問調書を採る。これは検察側が王文孝に対して行った第一回尋問調書だが、この調書は現在まで提出されていない。
+ 16時
 現場検証、このときまで王文孝は単独で犯行を行ったと述べていたが、警察は被害者の体に79カ所もの刺し傷があることから単独犯とは考えられず、共犯に関する追求が始まった。また現場検証の録画テープは、警察によると「消去した」として未提出である。
+ 23時30分
 警察による王文孝に対する第一回尋問調書によると、王文孝はここで初めて共犯(謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳の四人)がいることを認める。この調書は台湾高等裁判所での審判の際になってようやく司法院の求めに応じて提出された。

8月15日
+ 4時30分
 第二回尋問調書によると、王文孝は謝廣惠を共犯から除外し、長腳が事件に関わりがあること、そして王文忠兵役任地を供述。この調書は警察によって第一回尋問調書と改ざんされた。

+ 5時
 捜査記録によると蘇建和はこの時間に警察による尋問を受け、犯行を否認したとなっているが、蘇建和は8月15日の昼食後に逮捕されている。この時間記録は警察によって偽造された可能性が高く、公文書偽造の疑いがある。しかし未だ追究はなされていない。
+ 12時30分
 王文忠が高雄において逮捕される。警察によって移送途中に蘇建和らの氏名を供述。同じ時間に蘇建和が自宅において逮捕される。
+ 23時
 劉秉郎、莊林勳が自宅において逮捕される。汐止分局の警察官は、二人が法律に関する知識が乏しいことに乗じて故意に被告に対し弁護人を任命できる権利があることを通知せず、弁護人選任権を妨害した疑いがもたれている。王文孝まだ軍事検察署に拘置されていた。この時までに王文孝は軍、検察、警察と合わせて48時間、なかでも警察には33時間拘留されており24時間以内に司法院に移送して審問を行うという憲法の規定に違反している。

8月16日
+ 3時10分
 警察は「臨検」の名目で捜査状を持たずに莊林勳宅に入り、莊林勳が供述を強要された開山刀を捜索した。開山刀は見つからなかったが、莊林勳の弟莊國勳を脅して同意を得、莊の寝室を破壊。

1992年(民國81年)
1月11日
 軍法会議による判決を受け王文孝の死刑が確定し、銃殺刑により死刑執行された。

------------------原文------------------

蘇建和案

蘇建和案,又稱三死囚案,是1990年代發生在台灣,蘇建和、劉秉郎及莊林勳三人先被以「結夥強盜、強姦、殺人」等罪名宣判死刑,三人一度被判無罪,2007年6月29日台灣高等法院又改判死刑的一個重大刑事案件;本案偵辦及審判過程有許多瑕疵之處、可能造成冤獄。部分承辦人員因辦案方法涉及刑求而由檢察官偵查,但後獲不起訴處分。這個案件對於台灣的刑事訴訟法制有很大影響,也促進台灣司法及警察制度的改善。

本案堪稱台灣司法史上最受矚目及最具爭議性的案件之一,歷經多任法務部長均未批准死刑執行令,是首件由檢察總長提起三次非常上訴及死刑判決再審後改判無罪,但經上訴發回又改判死刑的刑事案件,也是首件判處死刑後未收押被告的案件。

本案件歷次的有罪判決,除證據力薄弱、模糊的物證外,主要是以被告自白作為認定犯罪的主要依據,但本案件的自白書邏輯性遭到質疑,而被告自白並不能作為主要證據(自白法則),再者被告自白取得過程又涉及刑求指控,即使涉及刑求的承辦人員未獲起訴追究,但在許多刑事學者(如蔡墩銘、李茂生等)的報告、人權團體的聲援之中,辦案人員、辦案過程以及歷次有罪判決均遭到嚴重的質疑與批評。

案件經過

[編輯] 案發


1991年(民國80年)

o 3月24日,台北縣汐止鎮發生吳銘漢、葉盈蘭夫婦命案。檢察官崔紀鎮勘驗筆錄上記載證物為廚房菜刀及菜刀上的毛髮,以及血指紋三枚、浴室中毛髮數根。受害夫婦的兒子吳東諺(當時6歲)目擊父母遇害後的慘狀。吳東諺本身罹患杜顯氏進行性肌肉萎縮症,全身癱瘓、萎縮,迄今臥病在床。

o 8月14日
+ 10時30分,專案小組借提王文孝。
+ 14時30分,檢察官崔紀鎮訊問王文孝並作成筆錄;此為檢方對王文孝所做之第一份筆錄,但此份筆錄一直未提出。
+ 16時,犯罪現場模擬,王文孝仍稱僅一人犯案,但警方不信被害人身中79刀僅為一人所為,於是開始訊問共犯問題。而現場模擬之錄影帶警方最後以「洗掉」為由一直未提出。
+ 23時30分,警方對王文孝作第一次警訊筆錄,王文孝首度承認有其他共犯:謝廣惠、王文忠、黑點、黑仔和長腳四人;此筆錄至台灣高等法院審判階段,警方纔應法院要求提出。

o 8月15日
+ 4時30分,第二次警訊筆錄中,王文孝排除謝廣惠,但供出長腳涉案及王文忠服役地址。此筆錄被警方改為第一次筆錄。
+ 5時,紀錄中顯示蘇建和於此時接受警方訊問,未承認犯行,但蘇建和是於8月15日中午飯後才被捕,此記錄時間可能為警方偽造,有偽造公文書之罪嫌。但並未被追究。
+ 12時30分,王文忠於高雄被捕,被警方押送北上途中供出蘇建和等人姓名。同一時間,蘇建和於家中被捕。
+ 23時,劉秉郎、莊林勳於家中被捕。汐止分局警員趁其二人法律知識貧乏,涉嫌故意不告知可選任辯護人之權利,涉嫌妨害被告請求律師協助。王文孝還押軍事檢察署。到此時為止,王文孝在軍、檢、警方手中共達48小時,其中在警方控制下達33小時,違反24小時內移送法院審問之憲法規定。


o 8月16日
+ 3時10分,警方以「臨檢」名義,未具搜索票非法進入莊林勳住宅,搜索莊林勳被刑求所供出的開山刀。雖未尋獲開山刀,但脅迫莊林勳之弟莊國勳同意,破壞莊的臥房。


1992年(民國81年)
o 1月11日,王文孝受軍法判決死刑定讞,執行槍決。

6月29日

6月29日、16年に渡って争われている蘇建和事件について、台湾高等裁判所の再審で一審を改め、蘇建和、劉秉郎、莊林勳に死刑及び公権の終身剥奪の判決を下した。蘇建和と法定弁護団はあくまで上告すると表明した

6月29日,纏訟16年的蘇建和案台灣高等法院更審改判蘇建和、劉秉郎、莊林勳等三人死刑、褫奪公權終身,蘇建和及義務辯護律師團表示上訴到底。