星期日, 6月 29, 2008

王金平



王金平(1941年3月17日-)[wáng jīn píng:おうきんぺい:Wang, Jin-Pyng]

 台湾高雄県路竹郷出身、現任の中華民国立法院長。

 台南一中初中部および高中部を卒業、その後国立台湾師範大学数学系に入学。卒業後、省立彰化進徳中学で教育実習を行う。しかし兵役終了後、家業の食品工場に就職し、輸入関係の業務を担当する。

 1975年末、高雄県工業会理事長を務めていた王金平は国民党地方党部に見いだされ、推薦を受けて第2次立法委員増員選挙に立候補する。家族と高雄県工業会の影響力は大きく、19万票の高い得票で立法委員に当選。1993年2月1日、王金平は第2期立法員副院長選挙への立候補者として指名され、高い得票で当選。1999年2月1日には立法院院長に当選。

 王金平は1990年に国民党中央政策会副主任委員に就任し、党の政策決定で中心的な役割を果たすようになる。1991年からは立法院工作会主任および党団書記長も兼任し、立法院における国民党を代表する政治家となる。1992年に党中央常務委員に当選、2000年に国民党が政権を失った後、党副主席に就任。野党となった国民党において5院の長である王金平は同党では最高位の公職に就く人物となった。

 王金平は国民党内の台湾本土派を代表する人物で、南部地区および低所得者層で強大な支持基盤を持つ。ただし李登輝元総統との関係が密接なため、統一派からはやや不信感を持たれている。2005年3月、連戦主席(当時)が再選を目指さないことを正式に宣言したため、王金平は国民党主席選挙に立候補する。選挙の相手となった馬英九は人気こそ高かったものの、王金平もその政治手腕を高く評価されており、党内各派閥や長老たちとの関係も良好だったことから、侮れないとみられた。しかし2005年7月16日に実施された中国国民党主席選挙の結果、馬英九が大差をつけて王金平を敗った。その後王金平は馬英九の要請を拒否し国民党副主席を辞職した。ただし、王金平はその際中国国民党の永久ボランティアとなると宣言した。

国民党陣営が立法員で新版中央選挙委員会(中選会)組織法を決議しようとした際、民進党側はこれを違憲としてボイコットすべきと見なした。2007年1月19日、立法院における与野党の乱闘はアメリカのケーブルテレビネットワーク、CNNのヘットラインとして報道された。民進党は議事進行をボイコットするためバイク盗難予防チェーンで扉を施錠して王金平を院長室に「監禁」した。これは議長が立法委員「監禁」された初めてのケース。


王金平のプロフィール

性別: 男
政党: 中国国民党
本籍地: 台湾高雄
出生: 1941年3月17日 (1941-03-17) (67歲)
日本統治下の台湾高雄州路竹荘
配偶者: 陳彩蓮
学歴: 国立台湾師範大学数学系卒(1963年)

経歴

* 高雄県工業会理事長 (1975年-1981年)
* 立法院(第一期増員)委員 (1976年-1993年)
* 中国国民党立法院工作会主任 (1991年-1993年)
* 中国国民党立法院党団書記長 (1991年-1993年)
* 中日国会議員聯誼会会長 (1992年-)
* 中国国民党中央常務委員 (1992年8月-2000年6月)
* 立法院(第二期)副院長 (1993年-1996年)
* 立法院(第三期)副院長 (1996年-1999年)
* 台湾プロ野球リーグ会長 (1997年-2002年)
* 台湾がん基金会董事長 (1997年-)
* 中華民国義勇消防総会理事長 (1997年-)
* 立法院(第四期)院長 (1999年-2002年)
* 中国国民党副主席 (2000年6月-2005年)
* 立法院(第五期)院長 (2002年-2005年)
* 立法院(第六期)院長 (2005年-2008年)
* 立法院(第七期)院長 (2008年-)
* 中国国民党政策会副主任委員
* 中華民国立法委員協会理事長
* 国家バイオテクノロジー医療発展委員会会長
* 中華民国バリアフリー推進協会名誉理事長

星期六, 6月 21, 2008

蔡英文



蔡英文(1956年8月31日-)[cài yīng wén:さいえいぶん]

 台湾の学者および民主進步党に籍を置く政治家。「二国論(中国と台湾が特殊な国と国の関係にあるとした論文、李登輝が発表)」起草に参加、2000年に民進党が政権を取った後、行政院大陸委員会(陸委会)主任委員に就任。2004年民進党入党、同年全国比例区から立法委員に当選。2006年行政院副院長に就任。派閥体質の民進党において派閥色のない蔡氏は、清潔なイメージも手伝って一部のメディアからは「小龍女」[1]あるいは「白玫瑰」の愛称で呼ばれる。現民進党主席(2008年6月現在)。

[1] 「小龍女」...著名な作家、金庸の武侠小説「神鵰俠侶」の女主人公の名前。孤高の存在で、独世俗的な汚れを持たない清廉なキャラクター

生い立ち

 屏東県枋山郷楓港出身。屏東客家の望族に属する。実家はかなり裕福で、父親の蔡潔生は、彼女が小学4年のとき、台北市の中山区中山北路と新生北路に少なからぬ土地を購入。国立台湾大学法律系を卒業後、米国コーネル大学法科大学院で法学修士を取得、また英国ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士を取得した。帰国後経済部国際経済組織の主席法律顧問、国立政治大学、東呉大学法律系所、国際貿易研究所の教授を歴任。

 90年代後期から中華民国国家安全会議の諮問委員に招聘され、二国論の起草に参与し李登輝総統(当時)に重用される。民進党政権となり、陸委会主任委員に就任し両岸(中台)政策を担当。2004年に請われて民進党に入党、2004年中華民国立法委員選挙で比例代表区から名簿第6位で立候補し当選。2006年1月に行政院副院長に就任。

民進党主席

 2008年4月17日、蔡英文は民進党の主席選挙に立候補を表明、蔡同栄、辜寛敏の両氏との争うことになる。5月18日、民進党主席選挙において73865票を獲得し、辜寛敏(48882票)および直前に事態を表明した蔡同栄(6530票)を下して第十二代民主進步党主席に当選。民進党史上初めての女性主席の誕生となった。

 5月20日、正式に民主進步党第12代主席に就任。5月21日、「希望」と題して就任演説を行う。

星期日, 6月 15, 2008

蕭万長



蕭万長(1939年1月3日-)[蕭萬長:萧万长:xiāo wàn cháng:しょうばんちょう、Vincent Siew]

 現任の中華民国副総統。2000年の総統選挙に国民党から連戦氏とペアで副総統に立候補し落選。さらに2007年6月23日、国民党の総統候補、馬英九氏に乞われ、2008年総統選挙でも再び副総統候補として立候補し、当選を果たす。常に笑顔を絶やさないことから「微笑老蕭」(スマイリー・ヴィンセント)の愛称で呼ばれる。


1939年1月3日、5男2女の三男として日本統治下の台南州嘉義市に生まれる。
1951年嘉義市大同国小を卒業
1957年嘉義中學高中部を卒業
1957年-1965年国立政治大学外交系、大学院

1978年、台湾とアメリカが断交した際,「永久最恵国待遇」を得るための談判に国貿局副局長として渡米した。

1993年と94年、行政院経済建設委員会(経建会)主任委員在任時、2回にわたりアジア太平洋経済協力会議に中華台北代表として出席。

1994年、台北市長選に国民党から蕭万長を立候補者にとの声が聞かれたが、当人に意欲はなかったことに加え、世論調査でも勝算は低く、友人の宋楚瑜などから反対されたこともあって、参選せず。(台北市長には陳水扁氏が43.7%の得票率で当選)

1995年、第3期立法委員選挙に故郷、嘉義市から立候補。民主進步黨の蔡同栄氏を敗って立法委員に当選。のちに行政院長に就任したため、立法委員を辞職した。これによる立法委員補選では先に蕭万長氏に敗れた蔡同栄氏が当選。

1996年末、李登輝総統(当時)が招集した「国家発展会議」では、国民党を代表して民進党との協議を行った。

1997年、連戦内閣が総辞職し、蕭万長氏が後を継いで行政院長に就任した。任期中の両岸(中台)政策は「戒急用忍(急がず忍耐強く)」。

1998年、行政院長任期中に金融不安が起き、東隆五金、禾豊集団、国揚実業、台中企銀、順大裕など上場企業株が突然紙切れに変わる「地雷株」となった。

1999年末、国民党の指名を受けた連戦総統候補のペアとして蕭万長氏は副総統候補となる。

2000年、国民党は総統選に敗れ、政権交代となり蕭万長氏は行政院長を辞職した。また、この年蕭万長氏は国民党副主席に任命される。

2005年3月、「世代交代」を理由に国民党副主席を辞任し、国民党中評会主席団主席に就任。

2006年、世界経済について解説する年代新聞のテレビ番組、「藍海年代」の司会を務める。

2007年6月、経済的なバックグラウンドおよび中台に広い人脈を持つことを買われ、国民党の総統選立候補者、馬英九氏の要請を受けて再び副総統候補となる。

2008年4月12日、「両岸共同市場基金会董事長」の名義で中国・海南省で行われる「ボアオ・アジア・フォーラム」に参加し、その中で胡錦濤中国国家主席と会談。「両岸融氷之旅」と題した今回の行程を蕭万長氏は「正視現実,開創未来,擱置爭議,追求双贏」(現実を正視し、未来を開く、争議を置いて、双方の利益を追求)と今後の中台関係を16文字で表し、中台の経済、政治に新たな局面をもたらす決意を示した。