星期日, 8月 12, 2007

両兆雙星産業発展計畫

「両兆」とは将来の生産高が1兆台湾元を超えることが期待される半導体とディスプレイの両産業、「雙星」とはデジタルとバイオという将来のスター産業

馬英九



photo by Jiang

馬英九(1950年7月13日—)
(日本語読み:ばえいきゅう、北京語ピンイン:Mǎ Yīngjiŭ、英語表記:Ma Ying-jeou

中華民国第12代総統

 香港生まれ、1993年から1996年まで中華民国法務部部長。1998から2006年まで台北市長。2005年8月19日就任中国国民党(国民党)主席(蒋経国、李登輝、連戦に続く第四代党主席、また、複数の候補者が党員による直接選挙で争って決まった最初の主席)
 妻は周美青、娘が二人。
 馬英九は、現在の国民党の中間世代を代表する政治家で、最も大衆的魅力を持つ政治スターと目されている。
 2007年2月13日、台北市長在任中の首長特別費の使用を巡り、汚職横領罪の疑いで台湾高等法院検察署により起訴された。以前から起訴されれば主席を辞任すると発言しており、同日主席辞任を願い出ると同時に2008年の中華民国総統選出馬を表明した。

生い立ち

 香港九龍広華医院に生まれる。当時の住所は調景嶺。父親の馬鶴凌は抗日戦争時、青年軍に参加、馬鶴凌の公職における最高の地位は行政院青輔会処長(十二職等)。退職前の地位は国民党中央考紀会副主委。母親の秦厚修は中央銀行外国為替局主任を務めたことがある。6人兄弟で馬英九以外は全て女児。祖先は湖南省湘潭県馬家堰出身。

 一歳の時、両親とともに台湾へ移住。中学時代は台北大安初中に学ぶ。高校は台北市建国中学、台湾大学法律系(法学部)卒業後ただちに予備役に就く。海軍左営後方司令部(左營海軍後勤司令部)に勤務。1974年、中国国民党中山奨学金を得て、米国で法律を学び、ニューヨーク大学法学博士およびハーバード大学法学博士の学位を取得。

 馬英九はハーバード大在学時、課外活動としてボストン通信(波士頓通訊)の主編を務め、同時にニューヨーク市ウォール街のコール&ダイツ(Cole & Deitz)法律事務所で弁護士実習生、メリーランド大学(University of Maryland)法学院の研究顧問を務める。さらに反共愛国連盟に参加したとの指摘もあるが、本人は認めていない。

 以下は馬英九がボストン通信主編を務めていた時の文章
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* 中央民意代表新陳代謝問題は、二つの原則によって実現すべき。ひとつは国内の新しい政治勢力を反映すること、ひとつは憲法精神を維持すること。

* ただちに戒厳令を解くことには賛成しない。ただし政府は人権保障を拡大し軍事管制を縮小することを原則として戒厳令に関する法規を全面的に見直すべき。

* 台湾独立勢力処理問題:最高指導原則は「敵ではなく同志」であり、我々は、十数年もの国内教育を受け、経済的繁栄を享受している若者が海外留学の後、なぜ台湾独立に同情を抱いたり支持したりするのか振り返って自省しなければならない。

* 228事件問題:我々は確信している。あの悲劇の中、一定数の無辜の人々が被害を受け、命だけではなく、名誉も失い、現在に至るまで「叛乱者」の名を着せられ冤罪が晴れていないことは間違いない。いつの日か名誉回復がなされるべきである。

* 台湾独立勢力の「多数統治」について。すなわち多数を占める閩南系住民が台湾を統治すべき、との主張には、「機会均等」を持って対応すべき。省籍を分けて考えるのではなく、全ての人が競争に対して等しく機会を得られるようにすること。

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 卒業後、メリーランド大学法学院研究顧問、ボストン第一銀行法律顧問を務め、同時にニューヨークの法律事務所に勤務。


政界進出

1981年:帰国。政界への進出を開始する。帰国後すぐ、公務員試験を経ずに総統府第一局副局長、すなわち蒋経国の英語通訳に就任。
1984年:国民党中央党部秘書長
1986年:甲等特別試験を通過。
1988年:行政院研考会主委兼大陸委員会(陸委会)工作会報執行秘書。
1990年:国家統一委員会研究員。
1991年:陸委会副主委兼スポークスマン。国民党不分区国民大会代表に当選。

逸話

* 総統府第一局副局長時代、総統への陳情を目にする機会のあった馬英九は、当時反乱罪で緑島の刑務所に収監されていた陳明忠の病気治療のための保釈希望を見て、その陳情への協力を決め、陳明忠は仮出所を獲得した。馬英九と陳明忠の間に面識はなかった。

* 呂秀蓮の入獄中、馬英九はハーバード大学の恩師・孔傑栄が病気治療外出中の呂秀蓮と三軍総合病院の応接室で会見できるよう手配した。

* 蒋経国が国会改革を決めた際、多くの者が「中央民意代表機構充実方案(充實中央民代機構方案)」を提出し「大陸代表制」設立を勧めた。馬英九はこれに対し、二度に渡り蒋経国の自宅を訪れ「大陸代表制」反対の理由を語った。蒋経国は終止笑いながら「要らないな」と答えた。後に蒋経国は自ら「台湾人」であると称して、大陸代表制構想を覆した。

* 1992年6月、馬英九はバークレーへ赴き、両岸(中台)関係の座談会に参加した。中国は秘密裏に汪道涵と会見してほしいとの意向を伝えたが、馬英九はこれを拒絶した。

* 1980年、馬英九は「国家統一綱領」の起草を担当した。当時注目を集めたのは、中国との統一時期とその方法だった。馬英九が提案したのは「中国との統一とその方法は、まず理性的、平和的、対等、互助の原則の下、台湾地区住民の意思、並びに安全と福祉を尊重し、段階的に順をおって達成すべき。」というものだった。後に「台湾地区住民の意思」の「意思」は「権益と福祉」に置き換えられた。


 1993年、連戦が行政院長に任命されると、馬英九は法務部長に抜擢された。しかし地方の黒金勢力(賄賂をもらって政治権力を行使するもの)に対する攻撃から、国民党が長年築き上げてきた人脈は根底から揺るがされた。「これは一罰百戒が目的なのだから、全員罰する必要はない。」と不満を述べる者もいた。

 連戦に対する圧力は日増しに強くなり、1996年に李登輝が総統選に勝利するまで続いた。新党と民進党が合流し始めたため、とりあえず連戦を行政院長にとどめた。民意代表との会合の中で、連戦留任支持の条件のひとつが馬英九の解任であったという。1996年、馬英九は行政院政務委員に転任した。この点を指して、ある者は「虜囚の身からの解放」と言い、ある者は「過ちを改め、気持ちを新たにする機会を与えられた」と評し、意見が分かれる。

 翌年、連戦内閣は白曉燕誘拐殺人事件(白案)などによる批判をにさらされ、馬英九は「官職を辞し、選挙には出ない」との声明を発表し、1998年市長選から撤退した。その後、騒動を経て(締め切りの一ヶ月後に申し込んだ)政治大学に専任としての教職を得、以後教育に専念し政治には関わらないと表明した。「台北市長選に関する批評は行わない」との表明は200回以上に達した。しかし、ほどなくして1998年に、多くの人の勧めと父・馬鶴凌の説得を受けて、台北市長選党内予備選に出馬。当時馬英九は国民党内で唯一陳水扁再選阻止の望みがある候補者と見られていた。結果、党内予備選に勝ち、国民党台北市長選立候補者となった。

 1998年の台北市長選の主要立候補者は、民進党で再選を狙う前市長の陳水扁、国民党で政務官を辞任した馬英九、および新党で前立法委員の王建煊の三人。結局、馬英九が51.13%の得票率で陳水扁(得票率45.91%)、王建煊(得票率2.97%)を破り当選。選挙活動中、当時国民党主席であった李登輝は党の立候補者である馬英九支持の態度を明確にせず、暗に陳水扁を助けていると見られ、その理由が馬英九の出自(外省人)にある、と考える者もあった。しかし選挙数日前、李登輝は応援大会において馬英九の手を取って掲げ、「新台湾人」と呼んだ。これが馬の選挙情勢に助力したと見られている。

市政

プラス面
 
・台北MRT6路線が在任中に完工開通。

・復興北路自動車地下道の開通。

・交通の快速化、バス専用道路の設置、公共交通機関利用の推進、駐車、駐輪スペースの増加

・基隆河百齢橋など6つの橋のライトアップと景観改善

・台北小ドーム

・百キロ自転車用無障害路を設置。

・1行政区1市民スポーツセンター政策の推進。(ただし知人に利益を図ったとの疑いもある。)

・上下水道普及率引き上げ。台北市の汚水問題を改善。

・ゴミ収集袋購入制によるゴミ収集費の徴収。

・10の市立病院を市立総合病院に統合。

・台北101など東部地区の商業資源を統合。内湖ソフトウェア工業園区拡張。市内無線インターネットシステム「Wifly」の設置。

・大型藝芸術イベントの開催など芸術と文化活動の重視

・猫空と北投のロープウェイ計画

・マイノリティ重視政策。新移民会館分館の設置


マイナス面
・2001年台風ナリー(Nari)来襲時、洪水予測を誤り、排水拠点の設置に失敗、MRT地下線路が浸水し、青線が運転停止、台北駅は3ヶ月の使用停止となった。

・2001 年女子サッカーアジアカップを開催した際、台北市議員段宜康らは台北市に観客が中華民国国旗を持ち込まないよう取り締まらさせた一方、中共の五星紅旗12 枚は取り締まりを受けることなく場内に掲げられた。台北市によると台北市は協賛にすぎず、実際の主導したのは中華民国サッカー協会で、協会も自らが警察の協力を依頼したことを認めた。しかし国旗の強制没収は否定し、オリンピックモデルを踏襲した(「IOCに五星紅旗は登録されているが、我が国が登録しているのは「梅花旗」である」)と語った。

・2003年SARS流行期間中和平病院内で深刻な院内感染が発生。原因は一人の洗濯業者の感染後、十分な隔離措置がとられなかったこと、警戒の不十分、感染予防措置の落ち度など。和平病院は封鎖、930人の病院と接触のあった人が集中隔離され、その関係者家族は自宅隔離となった。病院関係者の57人が感染の疑いがもたれ、7人が死亡。一般人では97人が感染の疑い、24人が死亡した。和平病院の林重威医師は感染患者の治療中に自らも感染し、命を落とした。

・円環市場など老朽化した市場の再建について、しばしば事前のずさんな計画、手抜き工事、排煙、漏水問題などにより、再建後業績が悪化し、閉鎖に追い込まれる市場も出た。

・再開発の名の下に数々の古蹟を撤去。その一方で蒋経国の七海官邸など国民党要員にまつわる施設は市指定の古蹟に認定した。

・ルーズベルト通りおよび忠孝西路のバス専用道路について、路線計画と周辺の交通調査の失敗から、交通に支障を来たし、忠孝西路のバス専用道路は今に至るまで使用されていない。(07年8月現在)

・馬英九は台北市立「聯合病院」設立を推進したが、その後患者たらい回し事件が発生。父親の虐待を受けた少女が潤沢な医療資源を持つはずの台北市の治療を受けられず、台中の小児総合病院に送られたが脳死となった。

・猫空ロープウェイの故障続発。温帯高山地区での使用を想定されたロープウェイを熱帯地区の台湾にそのまま持ってきたことが原因とされる。

台北市長再選

 馬英九は市長当選後すぐに、2期つとめる意志を表明したが、02年台北市長選前、04年の総統選出馬のため市長選挙には立候補しないとの憶測が流れた。しかし、結局市長選に立候補し、「これまでとは違う方法」でこの選挙を戦うと宣言。政見の発表、市民討論会などを重視したため、民進党推薦の対立候補李應元も政見の発表を重視した。これにより、この選挙は純粋に政策によって争われた、近年まれに見るハイレベルな選挙だったとの見方もある。
 選挙期間中李應元陣営は、「香港脚(馬英九は香港生まれ、「水虫」の意味も)」、「特首(香港など中国特別行政区の首長、馬英九氏の「ひとつの中国」受け入れを揶揄)」などの呼称を多用し、メディアの影響のもと馬英九の出生スポットが当たり、「台湾への愛情」がないと攻撃された。芸能人の朱約信(芸名「豬頭皮」豚の頭の皮(料理名)の意)は「台北の犬」という歌を作り、馬英九を「犬」と称して攻撃した。陳水扁は李應元への応援演説の中で「馬英九が香港特首の董建華と会った回数は、台湾総統である私とより多い」(実際は数回会っただけ)と述べた。馬英九は終止笑顔で「ご指導に感謝します」との反応を繰り返すだけだった。その後馬英九は戦局を馬英九と陳水扁をリーダーとする民進党中央部との戦いに転化し、李應元を蚊帳の外に押しやった。結局馬英九は64.11%の高い得票率で李應元(35.89%)と圧倒して再選を果たした。

性格

座右の銘は「治事以敬,待人以誠」(注意深く事に当たり、誠意を以て人に当たる)

蒋経国は馬英九を「欠点のない人」と評した。

法務部時代のあだ名は「コンピューター人間」(まったく欠点のない人)

荒れた政界の中において馬英九は比較的「口が悪くない」タイプ。

馬英九は、1.契約関係にある人、2.協力関係にある人、3.監督関係にある人の3種類の人間からの贈り物は受け取るべきではないとする。

努力家で知られ、自身「頭が良くないと言われるのはかまわないが、努力が足りないとは言わせない」と話す。馬英九担当の記者は冗談で「給料を二倍もらわないと割に合わない」と語る。

政敵、中には国民党の政治家からも「軟脚蝦(軟弱者)」、「乖乖牌(女っぽい/ぶりっ子)」と揶揄される。メディアからは「不沾鍋(くっつかないフライパン、不正に関わらない反面、部下の不祥事などに対しても責任を逃れようとする態度を指す)」と彼の政治的潔癖性を形容。

批判や攻撃にさらされると、いつも「ご指導感謝します」の言葉でかわすやり方をよく使うため、インターネット上の流行語になり、敵対者からは「責任逃れ」との批判がある。一般的にその「理性的で温和な」態度は中間有権者層の期待と支持を集めていると見られる。

しかし、国民党主席に就いた後、陳水扁総統罷免運動が発生した際、06年6月7日「辞職しないならば、いい死に方をしない」「弾は込められた、後は引き金を引くだけ」「あなたに残された時間は多くない」など人が変わったような発言をし、騒動を引き起こした。馬英九は世論の圧力を受け、6月14日謝罪した。

生活
ジョギングと水泳が趣味。
二人の娘(馬唯中と馬元中)はともに米国の大学で学ぶ。馬唯中はアメリカ生まれのため、米国籍を所有。

メディアとの関係

緑陣営(民進党+台聯支持)はよく馬のことを「メディアが作った神」と批判する。
緑陣営メディアは、台湾中部で生まれた「台湾語よりも英語が上手、台湾よりも中国びいき」という対句をもって批判した。
緑陣営メディアは台湾語が台湾本土重視を表し、青陣営(国民党、親民党支持)は英語が国際化を表すと互いに譲らない。

政治的主張

 中台関係は現状維持を支持。中国の完全な民主化を持って統一の可能性を探る。

「三民主義の現代化」を以て党の中心思想とし、党の規範と精神を再興し、人心を引きつけ、08年政権奪取を目指す。

 中華民国を維持し、台湾独立にも中国の主張する一国両制にも反対。中華民国憲法と「九二共識」を基礎として、対等、相互尊重の前提のもと中台の平和と交流を促進する。「連胡会五項共同願景」を中台関係発展の指針とし、敵対関係の終結、平和協定への署名、共同市場の建設、最終的に統一を目指す考え。

法により党の財産を処理し、処分後の所得は退職した党職員のために優先的に供する。政党法を推進し政党間の公平な競争を維持。

党は選挙のための機構であるとともに、党の理想と使命感を顕現しなければならない。

積極的に青陣営をまとめ、各選挙で勝利を目指す。

国民党青年団を作り、総団長を副主席とする。

地方において勢力拡大と組織的動員に参与する民主行動団を推進。

「土豆(落花生)ボランティアグループ」を組織。

民進党政権に対抗するため、議会路線と街頭路線の相互運用。

つづく

非同額競選 複数の立候補者による選挙
同額競選 単独の立候補者による選挙
反躬自省 振り返って自省する
負笈 本箱を背負う→勉強する
含冤 han2yuan2 冤罪が晴れないままである
會晤 会見
殺雞儆猴 「鶏を殺して猿に警告」見せしめにする
繽紛  ㄅ|ㄣ ㄈㄣ  にぎやかな様子
就醫 病院に行って診察を受ける
染煞 SARSに感染する
熄燈 店などを閉鎖する

2008国家発展重点計画

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%B8%E9%8C%AB%E5%A0%83#.E6.8C.91.E6.88.B02008.E5.9C.8B.E5.AE.B6.E7.99.BC.E5.B1.95.E9.87.8D.E9.BB.9E.E8.A8.88.E5.8A.83

(1)E世代人材の育成
 生活環境の国際化を進め、国民の英語力を高める。
 国民オンライン教育、青少年教育の推進。
 E世代生涯教育の社会環境の構築。

(2)文化クリエイティブ産業の発展
 芸術家およびクリエイターの人材育成。
 クリエイティブ産業環境の構築。
 クリエイティブ産業及びクリエイティブメディアの発展。

(3)研究開発の国際基地
 研究開発の国際的人材を招聘、世界の研究開発資源を引き込む。
 500億元の研究開発借款を提供。創造的研究開発活動の活性化。
 重点産業学院の設置。
 産・学・研の協力による人材の育成。
 創造的研究開発能力の蓄積。創造的研究開発センターの設立。
 創造的研究開発特殊領域の優先的確立。重点産業に関する科学技術の研究を推進。
 中核産業の技術の確立。

(4)産業価値の向上
 1000億元投資共同基金、新産業の資金獲得の道を拡大、産業開発の中心技術への援助。
 IT、ソーラー発電、通信、機械、紡織、バイオテクノロジーなどを以て産業の付加価値を高める。
  伝統産業の付加価値を高め、「両兆双星産業発展計画」(注:「両兆」とは将来の生産高が1兆台湾元を超えることが期待される半導体とディスプレイの両産 業、「双星」とはデジタルとバイオという将来のスター産業)、4大新サービスおよびエコロジー産業などの重点産業の発展を推進する。
 国際的販路拡大、ブランドの国際化の奨励
 産業発展基地となる産業特区の建設

(5)観光客倍増

(6)デジタル台湾

(7)海港と空港の連結、手続きの簡略化、電子化

(8)鉄道、道路網の整備、快速化

(9)水と緑の建設(水資源の有効利用、土地区画整理、資源の再利用、上下水道整備、エコロジー経営建設)

(10)ふるさと建設

星期六, 8月 11, 2007

陳菊高雄市長、地方交付税縮小に不満を表明

 地方交付税の大幅縮小(110億台湾元)に対し、青陣営政権の台北県のみならず、民主進歩党(民進党)の陳菊高雄市長までもが「再考の必要がある。これでは立法委員選挙、総統選をサポートすることができない」と不満を表明した。陳水扁総統に対しても、総統の高雄高雄訪問を機に意見を表明した。
 台北、高雄の2大都市からの批判を受けて、行政院は、非常に申し訳なく思うが予算は限られており、できるだけ早く補助対策を考えるとした。